飛騨国の戦国大名について語りましょう。
白川郷周辺には、横谷、天生、森茂、片野、六厩、落部、上滝、三谷、三尾河など9つもの金銀山が所狭しとある。
小牧長久手合戦の時、内ヶ島氏理は、徳川について佐々成政を支援して、越中に出陣した。
その隙に、秀吉配下の金森長近が飛騨を手中に収めたので、氏理は長近に降ってなんとか本領を安堵された。
氏理が多くの鉱山技術者を抱えていたため、長近もこれを滅ぼすわけにはいかなかった。
そんな矢先の大地震だった。
1585年11月29日、飛騨白川郷を突如襲った山津波は領主内ヶ島の帰雲城と三百余戸の城下を一瞬にして呑み込んだ。
これにより内ヶ島氏理はじめ多数の人々が圧死を遂げた。
帰雲城の黄金伝説が生まれたのは、このときからだ。
飛騨国って石高四万国無い程度しか無かったんじゃなかったっけ…?
飛騨の勢力の有名所というと三木や江馬が有るのに内ヶ島氏だけで三万石?
「飛州ノ帰雲城ト申所ハ内島ト云奉公衆アル所也、地震ニテ山崩山河多セカレテ~」
(宇野主水記)
戦国史に残る悲惨な滅亡といっていいんですがここまですさまじい大自然の脅威に当てられると
もう呆然としてしまいますな。帰雲城が心霊スポットになってるとか一切聞いたことないし
というか幽霊にしても掘り出せないほどの土砂に埋もれたら出てこれねえか。
内ヶ島は部将尾上氏綱らが向牧戸あたりで抵抗し、
その後、内ヶ島の向牧戸城主は裏切って金森に投降したけれど
三木軍の援軍もあって、金森軍(正確には金森の援軍の遠藤軍にか)にはかなりの死傷者が出た。
ただ、この時、当主の内ヶ島氏理は越中に出陣中だったけれど
急いで帰って来たときには三木自綱も破れ飛騨はもう金森の支配されてた(金森軍は帰雲城は素通りしたようだ)。
そのため内ヶ島氏理はもうどうしようもなくて、家老そのほか家来80余りを伴って
金森長近に降伏に行ったところ、所領は無事安堵されて喜んだらしい。
ちなみに内ヶ島は佐々成政と同盟してたし、
三木自綱にも逆らえるはずもなく、とりあえずは戦うしかなかったんじゃないかなー
ア〇タ飛騨高山店近くの広瀬城なんか
店の駐車場から堀切がくっきり見えて中々感動的だった・・・
おー俺もあそこ数年前に登ったよ懐かしい
畝状縦堀が案内板無しでも一目で分かる優れ物の城跡だった
何か周りの道路を開発中とかで山の木々を払っていたけど今でもそのままなんだ?
登った後に件のアピ○駐車場から堀切の位置を再確認して感動したわ
今では整備されて文化財として保存されているのかな?
> 今では整備されて文化財として保存されているのかな?
そのへんは不明。地元の人に聞かないとわからないと思う。
これによれば、太閤検地の頃で、やっと38000石となってますな
やはり石高に反映されないのかなあ?
当時の交通ルートでは食料輸入といっても限界があったと思われ。
今の日本だって外国からたくさん食料を輸入してる
だけど、外国からの輸入品を、「日本の農業生産」にカウントしないでしょ
内ヶ島氏は三万石相当の力?財力?が有ったって解釈にしたらいいのかな?
> 内ヶ島氏は三万石相当の力?財力?が有ったって解釈にしたらいいのかな?
金森氏から三万石相当の「格付け」をされたということかも。
http://www.asahi.com/travel/kosenjo/TKY200907290192.html
この悲劇は、大阪府貝塚市に一時移っていた本願寺の日記「貝塚御座所日記」にこう記されている。
「飛州ノ帰雲ト云(いう)在所ハ(略)地震ニ山ヲユリクヅシ(略)
内嶋一類地下人ニイタルマデ、不残(のこらず)死タル也」(『真宗史料集成』同朋舎メディアプラン)
地底人?
地下人=武士など
地下人(じげにん)
貴族や坊さんから見た武士とか広い意味での一般庶民
投稿日:2014/08/17(日) 09:30:39.56 ID:Ey2fN8lT
金森長近は高山行ったら像あったり結構有名っぽい。
でも子孫が一揆の鎮圧に鉄砲で殲滅したって看板にもかいてあったから
恨みも買ってるのかもね

