【歴史】「外様の直政を重用したのは、今のトヨタ人事と共通するものがある」 外様リーダーがなぜ一番出世?井伊直政の外交術
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井伊家の居城となった彦根城(滋賀県彦根市)
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『井伊直政』(戎光祥出版)の著者で元彦根城博物館学芸員の野田浩子氏
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■没落寸前の貴公子に家康が着目
『井伊直政』(戎光祥出版)の著者で元彦根城博物館学芸員の野田浩子氏は、直政が抜てきされた理由として(1)井伊家という名門ブランド(2)仕官したタイミング(3)敵を取り込む外交交渉能力――の3つを挙げる。「井伊家は遠江(静岡県西部)で鎌倉時代から続く東海地方のみならず全国有数の名門武家」と野田さんは話す。桶狭間合戦で当主が戦死するなどどんどん衰退していったが、没落寸前の貴公子に着目したのが家康だった。
当時は戦国大名の群雄割拠から天下統一へ向かう時代の境目で、軍事力に加えて高度な政治交渉がより必要になってきていた。野田さんは「大名同士の外交には相応の格式を持った一門衆が必要だった」と指摘する。ところが徳川家では1579年(天正7年)に、盟友関係にあった織田信長の意向で、嫡子の信康(1559~79)が切腹させられるという「松平信康事件」が発生した。家康は後継者というだけではなく、当主代理の任務を果たせる人材まで失ったわけだ。
代わりとして2歳年下の直政が注目されたというのが野田さんの見立てだ。家康自身や「徳川四天王」の本多忠勝、榊原康政ら現役最前線の世代に続く次世代エースの立ち位置だ。「信康が存命していれば直政をそこまで取り立てることはなかったかもしれない」と野田さんは指摘する。
■徳川家の外務大臣役に
外交デビューは22歳の時の1582年(天正10年)、関東の大国、北条氏との和平交渉。通常ならばナンバー2の重臣が担当しなければならない任務に抜てきされた。「井伊」の家名は関東でも知られており、直政は成功に導いたといわれる。以後、若年ながらも旧武田家の吸収など難しい案件が次々に与えられ、徳川家の外務大臣役に成長した。
直政抜てきの最大の要因はもちろん、直政自身の適性だ。家康は15歳の少年の時から本人の個性をじっくり観察し直政の将来を決めたのだろう。「名門の後継者にふさわしい教育は幼少時に周囲から受けていたようだ」(野田さん)。他人に好意を抱かせる容姿や所作がきれいなことは後年まで変わらなかった。14歳まで近隣の寺にかくまわれてきたなど辛酸をなめてきたことから、交渉相手に気を配り、その立場に立って考えるクセが身についていたようだ。
よく知られているのは豊臣秀吉との講和の際のエピソードだ。家康が上洛した時に、上方での家康の安全を保証する人質として、秀吉の母・大政所が岡崎にやってきた。ほかの重臣が周囲にしばやまきを積み重ねて大政所を脅かしたのに対し、直政は菓子を持参してたびたびご機嫌うかがいを重ねたという。人質としてではなく、主君の賓客として扱ったわけだ。秀吉は直政の対応に感謝したという。豊臣政権では大名並みの格式が与えられ諸大名と交際した。こうした環境がさらに直政を成長させるのに役立った。
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引用元http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1514022874
家康自身も直政を「日頃は冷静沈着で口数が少ないが、自分が考え違いをしている時はほかに人がいない所で物柔らかに意見をしてくれる」と評価していたと伝えられている。自然に気配りできる人物だったようだ。
忠誠心と団結心は強烈だが主君の家康にも遠慮なく直言し、外部に対しては閉鎖的な「三河モンロー主義」の徳川家中にはいないタイプだったのは間違いない。敵に対してすら最も良い身の振り方を考える直政の外交術は、徳川家が対外勢力を味方に付けていくのに大きく貢献していった。
一方、「直政本人は兵力を操る軍事作戦に長けていたわけではない」と野田さん。直政のために家康が有能な人材を集めた家臣団が効果的に機能した。その代表が「井伊の赤備え」で知られる武田旧臣4隊だ。徳川軍団の中でも最大・最強の部隊に成長した。さらに家老格の木俣守勝は幼少時から家康に仕えた名臣で、軍事、外交ともに補佐役を果たした。
直政自身は戦場で常に先頭で敵陣に突っ込み、負傷が絶えなかったという。家中からの嫉妬を跳ね返すためにも体を張る必要があったのかもしれないが、そこに自身を安全に保ち名門の家名を守っていくという姿勢は感じられない。抜てきの理由は徳川四天王と呼ばれる有力家臣の中でも4番目の直政が何より家康の利益を優先していたことを、家康自身が知っていたことだろう。私的な利益をはかる人物を、家康はひと一倍嫌ったという。
■秀吉のような立場
豊臣秀吉の死去直後から関ケ原の戦い、戦後処理まで、直政は事実上家康の分身として働いた。黒田長政をパートナーとして豊臣系大名を次々に取り込んだ。そこには生涯他人に言えない謀略もあったに違いないが、西国大名から「天下の政道をつかさどる器量がある」とまで評価されていた直政だから、それとは気付かせずに攻略を進めたに違いない。
関ケ原合戦での小早川秀秋の寝返り、西軍で毛利方の吉川広家の不戦など東軍勝利に決定的な案件は、直政と黒田長政の連携プレーでなし遂げたことが知られている。関ケ原の戦い前に直政は病気で不調だった。戦場では島津勢のために重傷を負った。
それでも対毛利、島津、真田などの重要な戦後処理は直政が担当した。相手方の立場を重視する外交術は、自分を負傷させた島津家に対してまで領地安堵の方向で協議を進めていった。
直政と似た人物を挙げるとすれば信長の家臣時代の羽柴秀吉かもしれない。いずれもカリスマ的なトップ自らの手によって仕事のやり方を教わり、オン・ザ・ジョブの形で次々に任務を与えられ、自分のスキルを成長させていった。交渉能力に優れ、最終的なスキルの高さは全国統治が可能と評価されるまでに至った。
ある意味では直政も秀吉も戦国カリスマの生きた作品であったかもしれない。両者の違いは名門の末裔(まつえい)と下層階級の出身、結局主家の権力を簒奪(さんだつ)した秀吉に対して最後まで忠節を尽くした直政という点くらいだ。
■トヨタも外部人材次々登用
早稲田大学ビジネススクールの入山章栄准教授は、「家康の直政抜てきのようなケースは現代のファミリー企業でもみられる」と指摘する。先代からの「大番頭問題」だ。古参幹部が幅をきかせて、新たなトップが経営しづらいケースもある。徳川家も当初は、酒井忠次、石川数正といった家康より年長の大物重臣が他家との交渉を担当していた。直政の登用で、家康がトップダウンで外交を仕切ることが可能になったわけだ。
家康の本拠地があった三河。くしくも愛知県豊田市にはトヨタの本社がある。かつては地元出身の生え抜きの幹部が少なくなかったが、創業家出身の豊田章男社長は、外国人や女性を役員に登用するなどダイバーシティーを推し進めている。グローバル化やデジタル化が急速に進むなか、外部出身者の人材登用も増えている。入山准教授は「外様の直政を重用したのは、今のトヨタ人事と共通するものがある」という。
家康より20歳近く若い直政は家康より14年早く40歳代初めに死去する。家康はその後、井伊家臣団の統制、居城の選定、後継者の差し替えなどに事細かく口を出した。直政の井伊家は自分が作ったという思い入れが感じられる。現在の彦根城(滋賀県)も、家康が直政の遺志を思い、築城。江戸期の井伊家の居城として琵琶湖湖畔に今もその優美な姿を映し出している。
(松本治人)
直政時代はブラック過ぎて
ちょっとしたミスでも処刑されるんで
みんなお隣の忠勝さんの所に
逃げてたらしいじゃねーか
幕府の意向どおりの圧政しただけ
まだ官軍とかも無い時代よ
桜田門外の変にビビった幕府が安政の大獄の全責任を井伊に押し付けたからね。
幕府のために命を賭けた結果がこれじゃ裏切るわな。
結果的には上手くいったけどたまたまの話であって
心情的に即座に攻め込む甲州より
今川で長年やってた三河の方がマシだったんだろう
同盟破棄関連で長男すら粛清したのに
何時粛清されるか分かったもんじゃない
長男粛清はお互い様じゃないのか
井伊が徳川方なったは信康切腹前
徳川方なる前に義信死亡だから時系列的に違う
よく分かんねー人だわな。俺なら家康会長の直臣になりたいけど。直政は上司としてキツイわw
井伊を外様と表現すべきではない。
遠江組なんか立派な外様だよ。
徳川で外様で優遇されてるのは後は井伊を除けば甲州組くらいかな。
最終的に領土倍増なった細川ってどういう扱い?
あれも外様だろ
細川は薩摩を抑えるって役目もあるから封土も多めに
最前線の八代城を守る松井家は細川家の家老でありながら山城に持ってた領地も
そのまま徳川からもらって旗本扱いも受けてた。
ほー
結局薩摩が倒幕運動起こすから
間違ってはないよな
間違ってはいないけど
幕末に家康の描いた戦略がまったく機能してないのが皮肉www
色々コントロールしてたのに
紀伊尾張と例外作ったら幕末両方薩長に着く悲しみ
でも、そのおかげで断絶しなかったじゃん。
徳川に士官だから、徳川のほうが居心地いいんだろうなあ。
遠江の名門か何かか?
井伊は南朝で先祖は神様にもなってるくらいの名門。
だから最後まで北朝を押した足利一門の今川が一番嫌い。
そして最後は裏切られて死亡
やっぱり能力主義って糞だわ
縁故採用最強
となって今に続く
徳川だって維新時に古参の譜代や御三家からも裏切られて終わったけどなw
水戸とかもう
水戸家には「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」
との教えが有ったから、忠実にそれを守っただけだよ。
あふれかえった時代だけど、学問とくに儒教や実学で新規に奉公がかなって
家老まで出世するなんて事例はいっぱい出てくるものな。脳筋の武芸者はいつまで
たっても奉公かなわないのが大半なんだけど
譜代はおろか外様すらないのに大老や老中をいっぱい出してる。
史実 直政の元服は当時としても異様に遅く通常15歳~18歳ぐらいの所22歳
美貌の外様の小姓が異例の大出世をしたり、元服がこんなに遅かったので、周囲から家康との男色を噂された
研究家は否定する人が多いが

腸の腐れ者っすなあ・・・w
当然の話だよ
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