
戦国時代とは言うけど上杉謙信は京に平和的に2回も上洛してるんだが 信長も美濃攻略前に上洛してる
2019/1/24
明治に鎖国が解かれて以降、緊張した国際関係の中で諸外国との争いが絶えなかった歴史がある。
だが、それ以前の時代に目を向けると、日本人の争いといえば主に「内戦」。
地理的条件も手伝って、外国からあまり攻撃されることがなかった日本では、
「武士」が台頭してから日本人同士による「内戦」が繰り返されてきたのは一般に知られるところだ。
第一線の古代史研究者・倉本一宏氏の『内戦の日本古代史(講談社現代新書)』(講談社)を読めば、
そうした内戦はいきなり武士の世になって勃発したわけではなく、壬申の乱など
古代から繰り返されてきたことがよくわかる。よくもこんなに狭い国土でそんなに争ったものだ…と思ってしまうが、
実は日本の内戦の数や規模というのは、中国やヨーロッパ、イスラム社会と比較するとかなり小さなものらしい。
実際、著者の友人の海外研究者たちは「みな日本史の平和さについて感心(かつ感動)している」というのだ。
(後略)
引用元http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1548327642
ヨーロッパの国でそんだけ動員出来る国は有るのか?
項羽と劉邦
オスマントルコ
コンスタンティノープル攻略とかで20万人動員してる
オスマントルコも一応はヨーロッパだったか
トルコを除くヨーロッパ間の戦争は調べてみると動員兵力は規模が小さいぞ
コンスタンティヌス11世の最後の演説は泣ける
誇りある皇帝
こんな小さな島国の内戦で、オスマントルコに匹敵する動員力と言われてもホンマですかと。
水稲地帯は炭水化物の生産効率桁違いだから
人口だけはクソ多い
おまえは勘違いしている
日本の国土は、狭いが大昔から人口は非常に多い国だぞ
いつも中国やアメリカとだけ比べてるから、間違える
日本は有史以来の人口大国だよ
今でも、人口1億を超える先進国なんて幾つもないんだし
どこおるんやろか
気づいてなかったわ
宿敵だな
唐
白村江の戦い等の百済復興戦争
元
元寇
明
秀吉の唐入り、朝鮮征伐
清
日清戦争、義和団事件
中華民国
日中戦争
ついでに朝鮮半島
高句麗、百済、新羅
好太王碑文等に戦ったことが記されている
高麗
元寇
李氏朝鮮
応永の外寇、朝鮮征伐
殺し合いしてた加賀一向一揆までどうぞどうぞと通してくれた
なんかよくわからんなほんと
船じゃなかったんか
歴史上の長寿の王朝は大体引き篭もり体制になってる
今川家は足利一門の名家で足利将軍を出せる家系だし
永禄2年の上洛で謙信(当時は景虎)は越後の精兵5000人を陸路で京まで連れてってる
そこは諸説ありだけどな
足利が死に絶え吉良が死に絶え、今川にお鉢が廻ってくる頃には幕府滅んでるつーの!と思う
軍事力を背景にすればなれるだろ
秀吉が藤原家を差し置いて関白になれるような時代なんだから
武家は皇室や公家より上だと本人達は考えてたから仕方ない
日本より確実に国力で上回るのは中国、インド、オスマントルコ位だろうし
人口が国力じゃなくて、国力が人口にも反映される
って程度じゃないかな?
そこだけ好きになれない
謙信も信玄も法名だからな
お前も仏門に入ったら名前は授かるよ
第4回川中島合戦の時は
上杉政虎vs.武田晴信
でしたか?
それにしても謙信は格好良いですねえ。
どんなにカッコ良くても
最期が便所でふんばった後に卒中だもんな
下らないことで歴史上の人物を全否定すんなよw
迎え撃つ方が馬鹿らしいだろ
無駄金に終わるわ
今川義元の上洛みたく、明らかに侵攻も兼ねてたら話は別
武田が滅んだのは信玄の鬼畜外交の付けとも
ちなみにその鬼畜外交に我先に乗ったのが
信長の叔母
だから叔母は超苛烈な方法で処刑された
秋山はついで
武田信玄ってめちゃ強力で一致団結した家臣軍持ってたと思われがちだが、各々好き勝手にやる豪族連合みたいなもんだから束ねるだけで一苦労。
信長みたいな中央集権的な体制とは違って旧態然としてたから信玄がどんなに有能でもどうにもならんな。
大量の史料から確認される統一された軍役持ってるだけ
やはりただの豪族連合とは違うよ
統治者が変わるだけの日本は平和に見えるわな
○武田信玄ー●徳川家康
△武田信玄ー△上杉謙信
●武田信玄ー○北条氏康
○上杉謙信ー●織田信長
●●上杉謙信ー○○北条氏康
【結論】 戦国最強は北条氏康
氏康は8000人の兵で8万の上杉足利連合軍を破って殲滅してるしな
それ上杉違いじゃ
一方の吉良はどうだ。共食いするほど繁殖力旺盛権力者に吸い付く寄生虫のようで、良い材料を知らない
日本のレジデンシアについて
日本人は、人を殺すことを、動物を殺すことよりも重大には考えていない。そのため取るに足りない理由からだけではなく、
自分の刀の切れ味を試すためであれば人を殺してしまうのである。
自分の屋敷でも人を殺すことがあり得るし、戦争が実に絶え間ないので、大部分の人々が刀で命を奪われているものと思われる。
他方、この国民は世界中のあらゆる人種の中で、最も偽善的で上辺を取り繕う国民である。なぜなら、日本人は幼い頃から本心を
露わにしないことを 学びそれを分別あることとし、それとは反対のことを愚行と考えているからである。
そのため、軽々しく本心をさらけ出してしまう者たちは愚か者と見なされ、心が一つしかない者と呼ばれて軽蔑されてしまう。
その結果、親も子も共々、彼らの間では約束も親愛の徴も信用できないので、互いに信じ合ったままでいることはない。
一般に、この国民は、誰もが自分の意志通りに生きることを全く当たり前としている。男も女も、幼時よりほとんど束縛されずに
育てられたため、したいことをし、 何らかの事柄においては両親からの支配を受けない。
というのも、両親は彼ら自分の子供を鞭打ったり、厳しい言葉で叱責したりはしないからである。
とりわけ貴人や領主は、自分勝手に我がままに成人してしまっている。
そこで薩摩の国主島津殿は、自国に危険が切迫しているのを見ると、国内の全地方から人々の招集を 図り、
老若男女を問わず、ついには武器を手にし得る者はことごとく、いかなる逃げ口も許さず、領国の自由のた
めに参集するように命令した。・・・
薩摩の国主は五万人近い人を招集した。それは何も驚くには足りぬことである。日本では国主または大名が
他と戦を始める時、彼は兵士たちになんら支払いはしない。
女たちは奴隷として家臣へ分配したと同時代の記録は記している
「義演准后日」
将軍、昨日、伏見城へ御入りと云々、女・童部ども取りて陣衆帰る、あさまし
「三河物語」
悉く女子をば北国、四国、九国、中国、五畿内、関東、出羽、奥州までちりぢりに捕られけり
当時はそれが普通だったんだろう
例えば伊達だって真田信繁の娘を乱取りで捕まえて連れて帰ってるんだし、
それを妨害したら天子・将軍の客への無礼になるから妨害できない
武力制圧とはまったく意味が違う
武士にとっての戦いとは何かって定義が難しくて一概い言えないが
例えばボクサーがタイトルマッチのリング上で戦うのと呑みやで遭遇してケンカになって戦う
のでは意味が違うのと同じで後者の場合たとえ勝ってもチャンピオンベルトが手に入らない
武士にとっての戦とは一種の公式戦である程度の身分がなければ公式戦を主催できない
その頂点が将軍だった
そんな武門の風が価値を失い近代風の軍事力という概念に転換してゆく過渡期が戦国時代で
その先頭に立っていたのが信長だった
日本と西洋中東で兵制度が全然違うから
ルイス・フロイスも書いてる通り>>81戦国大名の軍隊のほとんどは徴兵された百姓で
武器も食料もすべて自弁で何の報酬も受けないのでやろうと思えば住人のほとんどを軍隊にできる
これを「兵士役」といい一種の身体税で武田家の領国法だと拒否者は斬首
一方、西洋の場合は食糧や武器や馬も支給されるほか勤務手当も支払われる
これは百年戦争の軍務契約書の訳なんだが数人の兵士を動員するだけでも凄まじい額になってることがわる
http://crazyhis.web.fc2.com/ahund/indenture.htm
これはアイユーブやオスマン・トルコにしても同様でしかも年間の動員期間まで定められているから
大兵力を有していても小出しにせざる得なかったりした
ルイスフロイスは西洋の事情を勝手に当てはめて類推してるだけな面があるので注意が必要
兵農が分離していないので百姓が足軽として参加してるのは当たり前だが
西洋の事情からそれを無理に徴発されたとしているだけ
農民の足軽参加の動機は一概に断定できないが大名に強力な強制力があったわけではない
武田家の同時代の軍役関係史料を見ると有徳の人や武勇の人といった一部の例外を除き
百姓などを軍役の補に連れてくることは反逆の元だと厳しい調子で禁止されているんだけど
これがどこまで徹底されたかどうかは別として方針としては兵農分離なんですよ
「武田家朱印状」永禄十二年(更埴市・長泉寺所蔵文書 佐久市小宮山家旧蔵文書など)
一 知行役之被官之内、或者有徳之輩、或者武勇之人を除て、軍役之補として
百姓・職人・禰宜、又者幼弱之族召連参陣、偏ニ謀逆之基、不可過之事
そちらの主張は具体的にどういった史料の記述に基づいているんだろうか?
こちらがやったように原文引用してもらっていいかな?
その石高に応じて軍役やら様々な義務を課すってもの
それが現代の系列会社のように孫請けひ孫受けと連なっている訳で
頂点の武田なら武田に末端の百姓足軽に対して直接の指揮権やら徴収権がある訳じゃない
>>156は封建体制の仕組みそのものを誤解してる
士分は自前だけど足軽は御貸具足と言って主家の家紋の入った具足で統一されているし戦力の均一化の為に武器も貸与されていたはず
「御貸具足」という江戸時代の名称が当時からあったかは不明だが実際に井田氏家蔵文書などを見ると
北条氏の軍役では鉄砲や弓槍などと同様「皮笠類之かふり物・具足」等の防具も軍役を課された家臣が
その下の者のために用意しなければならない決まりになってるな
全国一律そうだったかは別として
大内と京都の間に赤松とか細川とか居ただろ
大内義興のライバルであった細川政元が暗殺されると京兆家と将軍家で家督争いが勃発
前将軍足利義尹を擁立する細川高国&大内義興連合軍と
現将軍足利義澄を擁立する細川澄元の戦いになった
足利義尹が備後にまで進軍した際に細川高国も呼応したため
足利義澄らは近江に逃走し、その後、船岡山合戦で激突する
赤松義村は細川澄元側だったが船岡山合戦の敗北後に義尹側についた
あいつらは家督争いを代々繰り返して自分で勢いを削ってる。そのせいで滅んだアホもいるのに、どうしてもやめない超アホどもだ
大名は家中をどれだけ掌握(兵士の動員)していたかという問題だな
荒木村重や明智光秀の謀反もこの問題だな