

【最後の】足利義昭vs徳川慶喜【将軍】
ひとまずの状況不利を悟ってあっさりと大政奉還し、明治維新の影の功労者とも言える慶喜。
どちらが将軍として、そして為政者として正しかったのか?
引用元http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1422954603
大政奉還すると徳川宗家の座も家達に譲ってしまっている
他に徳川一門男子が大勢いて自分が宗家を守る必要もなかった慶喜と
父も兄も死に足利宗家を最後まで守らざるを得なかった義昭とは事情が違うのでは
俺が読んだ『足利義昭』では「義昭は、やはり京を追われた時点で将軍職を辞すべきであった。」
と著者が結んでたけど、それは結果論だろうと。義稙のように復帰できる可能性もあるんだから
義稙みたく解任されたわけでもないし将軍職辞任する必要はない。本人はやる気まんまんだし。
まぁ義稙は再度解任されて義昭の父、義晴が将軍になったけどねw
将軍継承資格を持っている成人となるとそれほど多くはなかったのでは?
君主の座にだけ明治天皇を座らせて後は徳川慶喜を議長とする議会を開き
各藩主を議員とする幕藩体制維持で政治を行おうと言う画策があった
ヨーロッパで革命が起こっているのを見れば日本も武力で将軍が民を治めていれば今に民が爆発する
形の上だけでも議会制が必要だという認識があったため
義昭の頃にはそういう考えがないしな
別の将軍がまた武力で日本を統治するだけなら足利一門の私が、と思う
同じ武家(豊臣)に形式的にも政権を譲った義昭のほうが武家としては上だ。
義昭は織田と対立し備後に遷座したあとも将軍職として執務し続けたのだから
政権を投げ出した慶喜よりはるかに責任感がある。
人柄も遙かに義昭のほうが明るい感じで好感がもてる。
義昭を裏切った近しい幕臣は長岡藤孝だけではないのかなと思われる。
幕臣の主要な人物は明智の家臣として世を忍び最終的に逆賊の織田を屠った。
まぁ確かに理由はどうあれ、慶喜は家定にも家茂にも勝海舟にも大奥にも嫌われてたしなw
最後の最後まで圧倒的な軍事力財力を保有していた徳川幕府と形だけになっていた
室町幕府では意味合いが違う
義昭があっさり政権放り出して逃げ切り、慶喜は最後まで抵抗する
ならまだ分かるがなぜ逆なのか
たんだろうね。見てくれは大きくても維持できるもんじゃなかった。
慶喜も感じていたんじゃないかと思う。
清朝、ロマノフ朝も同じ感じ。
義昭に「征夷大将軍を返還しろ」と命令する奴がいないから
名乗ってただけだよな
秀吉に言われてようやく征夷大将軍を辞したが
秀吉にはそうしなかったのよ。家康が服従した時点で将軍宣下すりゃ良かったのに。
朝廷が信長に提示したのは関白、太政大臣、征夷大将軍、お好きなものをどれか選んで頂戴
武家の棟梁が征夷大将軍と決まってたわけじゃないんだよね。
はっきり言って大臣クラス以上の官職ならなんだってよかった。
鎌倉幕府は征夷大将軍の血筋がどんどん変わっていったし
室町幕府は応仁の乱以降100年ぐらい将軍が幕府所在地離れて転々とする政権で
当時は征夷大将軍にそれほど魅力がなかった
若狭武田→朝倉→織田→毛利
と大名たちのところを転々とできたけど
征夷大将軍を返上したらもう匿ってくれる大名もないよね
秀吉にそこそこの待遇で京都に迎え取られることになったから
ようやく征夷大将軍を辞したけど
慶喜だって官位返上してもそこそこの待遇が得られるからそうしただけで
切腹ならば徹底抗戦したでしょ
慶喜は朝廷の沙汰が出るまでの謹慎中、薩長の中には切腹を唱える者もいたんじゃなかったっけ?
長州を主導する桂は慶喜に寛容論だった
この時期の朝廷を主導していた三条実美や岩倉具視は
幕末から長州と行動を共にしていた
理解があったからと思う。
二百数十年の婚姻養子縁組で大名家は皆親類な状態になってた
ことが背景にあるんじゃないか。
その上、長州は皇国史観。
慶喜の母は皇族。こりゃ殺せないよw
さっさと欧米列強並の軍事力をつけなければならないのに
日本国内で内紛やってる時間がなかったんだよ
とりあえず恭順示す奴は放置
いちいち息の根止めるまでやっていたら明治維新が遅れてしまう
それも守護職だの所次第だの老中だの足手まといを連れて。
当時の幕府首脳は慶喜の完全独裁状態だぞ。
慶喜について来いと言われて逆らえるような奴は存在しとらん。
運と実力の慶喜 名誉回復され、宗家とは別に公爵となる
それを言ったら慶喜も血統と名門でしょ
母親は皇族
戊辰戦争の東征大総督で後に元老院議長となった
有栖川宮熾仁親王はいとこの子
家康の男系男子だから将軍になったわけで、
母方の血統で将軍になったわけではないでしょうが
慶喜は実力で名誉回復されたわけじゃないでしょ
明治になってから公爵にまで戻れているのは
親族に皇族がいたことも考慮されたはず
何を考えてんだか周囲に分からん
独裁者というより個人プレー好き
政治家で言うと菅直人のわけの分からなさに似ている
小政党から成り上がった権力者ってああいう個人プレー行動が多い
唯一の術だっただけって気もするけどな・・・
室町幕府15代将軍と言う肩書きが有ったからこそ実質的に幕府が潰れた後
でも諸大名などが世話をした。
義昭と言う貴種を抱え込むのは名物珍宝を手にするのと変わらない感覚
だったような気もするけど。。。
あっちこっちの大名が手を焼いてたし「名物珍宝」は違うだろ
織田も毛利も義昭を上洛の理由にしたかっただけ
天下は自分が欲しかっただろうから
根底で分かっていたからな。
だからあんな負け方をしたんだと思う。
マジで戦っていれば、数年間の内戦になるのは間違いない。
でもそうなっていたら、間違いなくイギリスに介入されて占領されていたと思う。
倒幕・イギリスと佐幕・フランスで大混乱、今の日本は無かったかもな
いまだにそんな図式を持ってるのは無知の証拠
日本における列強の力関係はイギリスが断然優位にありロッシュは危機感を持ち個人的に幕府に接近しただけ
だから本国から更迭されウトレー公使は再び英仏協調路線に戻ってる
慶喜が大政奉還を行った意図は色々あるが政令一途という目的が一番大きいだろ
何とか兵庫開港までは個人プレーで乗り切ったものの、ガチャガチャ議論してたら対外政策の一元化ができなくなる
その後の政体でも慶喜の個人的能力や声望にかなう人物はいないわけで、徳川家による世襲継続という目的は希薄だろうね
未練たらたらの義昭
足利幕府は直接的に領土はほとんど無く、自分の家来の守護大名が支配し
その上に君臨している将軍だったが
徳川幕府は自分も直轄地という、家来の大名よりも大きな領土を支配し
さらに上に君臨する将軍で
その支配構造を見ると、そう思ってしまうが
幕末の徳川は長州藩を攻めたが負けてしまった
しかし足利全盛期の義満は、長州以上の領土であった大内や山名を討ち取った
これを考えると、支配力という点においては足利全盛期の方が上でしょう
日本の歴史上足利幕府ほど頼りない支配者はいなかった
設立当初から南北朝の動乱で、ようやく治まっても戦争多発
真ん中当たりから戦国時代になり、日本中のほとんどが足利幕府の言う事を聞かない状態
将軍は京にいる事も稀になり、多くが放浪将軍
ようやく義昭が信長というパトロンを頼り京へ上洛できたが
住むとこもなく信長に二条城をつくってもらいながらも信長に反抗
支配者としてのノウハウやモラルもあったもんじゃない将軍であるが
歴代足利将軍も、兄弟や父息子た争い似たようなのばかり
こんなんでも徳川幕府と同じく15代続き、年数もほぼ同じ
ある意味凄い幕府だったと思ってしまう
仕えた家臣が大変そう
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