人物

自分だけが名将と思ってそうな武将

1: 人間七七四年 投稿日:2010/09/21(火) 10:56:36 ID:KvW1Iqmh

岡利勝
no title


2: 人間七七四年 投稿日:2010/09/21(火) 11:18:11 ID:at7NhBhO

仙石秀久
3: 人間七七四年 投稿日:2010/09/21(火) 13:30:52 ID:zSX35UIC

小田天庵様
4: 人間七七四年 投稿日:2010/09/21(火) 23:39:48 ID:X5g1H/qY

蜂屋頼隆
no title
5: 人間七七四年 投稿日:2010/09/23(木) 06:05:36 ID:FRwYX/V+

金子元宅
6: 人間七七四年 投稿日:2010/10/01(金) 19:30:52 ID:Qme1/XE9

暗黒寺絵刑
7: 人間七七四年 投稿日:2010/10/01(金) 21:45:39 ID:5L59ZOVZ

>>1
理由くらい書けクズ
自分からクソスレにしてどうする無能
お前、仕事できないだろ?w
8: 人間七七四年 投稿日:2010/10/01(金) 22:48:27 ID:GDkt0Pcy

菅谷政貞

こういう名君、名臣のコンビは最高だな。

菅谷政貞(すげのや まささだ、永正15年(1518年) - 文禄元年(1592年))は小田氏の家臣。左衛門大夫、摂津守を称した。 後に入道して全久と号す。菅谷勝貞の子。子に菅谷範政。父同様、小田氏治に忠義を尽くした。氏治が佐竹氏に小田城を奪われると、氏治を居城の土浦城へ迎えて、小田城を何度も奪還した。しかし1583年、氏治が佐竹氏に臣従したため、やむなくこれに従い、臣従したという。
9: 人間七七四年 投稿日:2010/10/02(土) 08:03:44 ID:o4H1nP2c

岩成友通
他の二人より実力あると思う
岩成 友通(いわなり ともみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三好氏の家臣で、三好三人衆の1人。姓は石成とも書く。通称は主税助。
別名に長信(ながのぶ)とも言い、元亀元年から「長信」の名乗りを使用している[1]。三好長慶の奉行人として頭角を現し、三好政権の中枢を占めるに至った。三好政権における出世頭ともいえる人物である。
12: 人間七七四年 投稿日:2010/10/02(土) 16:21:33 ID:bJ/ec4rF

関羽
13: 人間七七四年 投稿日:2010/10/02(土) 17:24:23 ID:JzXjjJNB

熊谷信直
朝倉景健
佐野了伯
下間頼廉
14: 人間七七四年 投稿日:2010/10/03(日) 00:40:21 ID:8HE3AODK

二本松義継
二本松 義継(にほんまつ よしつぐ)/畠山 義継(はたけやま よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将、二本松氏第9代当主。陸奥国安達郡二本松城主。天正13年(1585年)、伊達政宗が岳父・田村清顕と共に大内定綱を攻めると、定綱と姻戚関係にあった義継も政宗から攻撃を受けた。義継は政宗に降伏を申し出たが政宗は義継を許さず、二本松付近のわずかな土地を除いて所領をことごとく没収し、大名としての地位を維持できない状況にまで追い込もうとした。この条件は政宗の父で隠居の輝宗や伊達成実らの斡旋で緩和されたものの、政宗を深く恨んだ義継は、10月8日に宮森城に居た輝宗の許へ参上した際に、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、途中の高田原で政宗に追いつかれ輝宗もろとも射殺された(粟之巣の変事)。享年34。あるいはこの時輝宗と刺し違えて死んだともいう。義継の遺体は政宗により斬り刻まれ、その上、藤蔓で繋ぎ合わせて無残に吊るされたという。
15: 人間七七四年 投稿日:2010/10/03(日) 14:14:46 ID:CtwTf2sF

高遠頼継
高遠 頼継(たかとお よりつぐ、生年未詳 - 天文21年8月16日(1552年?)は、戦国時代の武将。信濃国の国衆で、伊那郡高遠城(長野県伊那市高遠町)城主。甲斐武田氏の家臣で信濃先方衆。諏訪郡の領主諏訪氏庶流の高遠氏の当主で、諏訪姓も称している。
18: 人間七七四年 投稿日:2010/10/06(水) 07:21:47 ID:51x/AD1m

上杉謙信
19: 人間七七四年 投稿日:2010/10/09(土) 15:37:35 ID:J7Jxl9PA

酒井忠次
20: 人間七七四年 投稿日:2010/10/09(土) 17:04:42 ID:AwRKBEVP

織田秀信
21: 人間七七四年 投稿日:2010/10/11(月) 11:52:56 ID:kvi+i9+i

マイナーだけど丹羽長秀

知る人ぞ知る名将だと思う。

22: 人間七七四年 投稿日:2010/10/11(月) 12:05:39 ID:BYqY3UGs

>>21
丹羽長秀はわりとファン多いんじゃないか?
23: 人間七七四年 投稿日:2010/10/12(火) 04:27:11 ID:XvbnLgh1

松平清康

なんとあの徳川家康の祖父にして三河一国を治めた器量人。
もっと知られていいはず。

24: 人間七七四年 投稿日:2010/10/14(木) 22:10:54 ID:XBqvBZZs

北信愛
北 信愛(きた のぶちか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。南部氏家臣。
元亀2年(1571年)から起きた「屋裏の変」では、田子信直(後の南部信直)を保護し、南部晴政と対立した。晴政の隠居後はその子の晴継を補佐した。晴継元服時には、烏帽子親として加冠の儀を執り行っている。
天正10年(1582年)、晴継が殺されて家督相続問題が発生すると、信直の擁立に尽力した。その後は信直の側近となり、内政や外交面で南部氏を取り仕切った。天正15年(1587年)には加賀の前田利家を訪ねて鷹を献上し、豊臣秀吉に臣従する意思を示している。天正19年(1591年)の九戸政実の乱においても、上洛して秀吉に援軍を要請した。翌慶長4年(1599年)、信直が死ぬと隠居しようとしたが、後を継いだ南部利直は許さず、なおも側近として重用された。その背景には八戸氏に対抗する人物がいなかった為とも言われているが事の次第は不明である。同年、剃髪して松斎と号す。
25: 人間七七四年 投稿日:2010/10/16(土) 10:05:39 ID:HGgHd83a

柳沢元政
柳沢 元政(やなぎさわ もとまさ、1536年(天文5年)- 1613年(慶長18年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。足利氏、毛利氏、豊臣氏、再び毛利氏に仕えた。
27: 人間七七四年 投稿日:2010/10/17(日) 01:33:12 ID:1Hij7UwS

山内一豊の正室、真田信之の正室が好みです
28: 人間七七四年 投稿日:2011/06/05(日) 00:12:33.52 ID:kAXv5siW

良スレ
29: 人間七七四年 投稿日:2011/10/02(日) 00:40:16.88 ID:VM2gNimp

織田信雄
30: 人間七七四年 投稿日:2011/10/20(木) 22:25:56.57 ID:NH8Dysjs

成田氏長
成田 氏長(なりた うじなが、天文11年(1542年) - 文禄4年12月11日(1596年1月10日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。本姓は藤原氏。家系は藤原師輔の流れを汲む成田氏。成田長泰の嫡男で、成田長忠の兄。
1563年に上杉謙信の侵攻によって隠居を余儀なくされた父・長泰に代わって家督を継ぐ。永禄9年(1566年)に父が寵愛する弟の長忠と家督を争うが、宿老の豊嶋美濃守らの味方により長忠が身を引いたため実権を得る事に成功した。こうした経緯から当初は上杉謙信の家臣として仕えたが、上杉方が劣勢となると父と同様に北条方へ寝返り、佐竹氏を頼って上杉方として抵抗を続けていた太田資正の娘とは離縁している天正10年(1582年)、織田氏の家臣滝川一益が関東に進出してくるとその配下となる。しかし本能寺の変が勃発し、一益が神流川の戦いで北条氏直に大敗すると、再び後北条氏へ帰参した。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐では、自身は小田原城に籠城し、居城の武蔵国忍城は家臣に守らせた。忍城は石田三成の水攻めを受けたがその効果はあがらず、豊臣勢の攻撃を持ちこたえている(忍城の戦い)。。永禄12年(1569年)に謙信と北条氏康との間で同盟が成立すると、国分の協定によって謙信も成田一族を氏康の家臣として正式に認めた。天正年間に入ると叔父小田朝興の騎西城を併合して弟の長忠を入れたとされる。
31: 人間七七四年 投稿日:2011/10/21(金) 01:40:37.84 ID:33v3A2Gr

小早川秀秋
関ヶ原の戦いも自分の機転が利いたから東軍が勝てたと勘違いしてそうw
周りからは裏切り者と罵られてたくせに
32: 人間七七四年 投稿日:2011/10/21(金) 01:43:14.29 ID:33v3A2Gr

今川義元もだなw
雪斎がいなければ何もできないボンボン
自分を名将と勘違いしてたから尾張征伐を敢行したんだろ
33: 人間七七四年 投稿日:2011/10/22(土) 14:25:19.71 ID:1SzFqULo

メジャーな武将は書いちゃいけないんだろうか?

ミーハーな俺は超メジャーな
石田三成を

34: 人間七七四年 投稿日:2012/02/01(水) 00:17:52.19 ID:79jbcrpQ

諏訪頼忠
35: 人間七七四年 投稿日:2012/02/08(水) 22:57:48.38 ID:AFIhmU2s

伊達政宗
36: 人間七七四年 投稿日:2012/03/17(土) 11:46:25.82 ID:qDDp4Iz9

佐伯惟定
佐伯 惟定(さえき これさだ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。豊後佐伯氏第14代当主。天正6年(1578年)に父・惟真と祖父・惟教が耳川の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。天正14年(1586年)の島津氏豊後侵攻(豊薩合戦)の際には生母と共に抗戦を主張して居城・栂牟礼城に攻め寄せた島津家久の軍を11月4日の堅田合戦で撃退した。12月18日には因尾谷を通る島津軍の輜重隊を率いる戸高将監を伏兵で討ち取った。天正15年(1587年)、惟定は土持親信が守る朝日嶽城を2月に奪回し、大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉が九州平定戦を開始すると、3月17日に府内から撤退する島津義弘と島津家久兄弟の軍を日豊国境の梓峠で撃破した。日向路の大将・豊臣秀長が栂牟礼城に到着すると、合流して先導役を務めて日向に入り高城攻め等に参加した。九州平定後、秀吉は惟定の奮戦を激賞し感状を与えた。
37: 人間七七四年 投稿日:2013/01/24(木) 01:16:23.64 ID:mBngxNCP

言うまでもなく足利義昭
38: 人間七七四年 投稿日:2013/03/30(土) 20:55:17.56 ID:Uab86MaV

蜂屋頼隆間違いない
39: 人間七七四年 投稿日:2014/10/24(金) 00:28:51.24 ID:fMB6NdFN

森長可
これで決まり。

引用元: 自分だけが名将と思ってそうな武将

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