になっていたら三好の例を鑑みても中央に
進出できたかもしれないじゃん?
毛利が邪魔だが
所詮地方の実力者止まりかなぁ?
最初から大人しく秀吉に降っていれば
土佐一国と(どこだか忘れたけど)もう一国安堵って条件だったっけ?
信長の時の土佐+阿波半国に比べれば条件は良くなってたんだよね
でも、河野家と十河家の一部を除いてほぼ四国を支配してる状況で、いきなりそのほとんど返上しろと言われてもホイホイ返上出来ないわな
まあ、家臣に恩賞としてばら撒いてる以上難しいわな
それは本能寺の時点より長宗我部領が増えているからであって、長宗我部が善戦したからではないと思うぞ。
もちろん秀吉が信長より寛大だからでもなく。
関ヶ原の前年まで生きてたくせに、どっちに味方しろとか今後はこうなるとか、
何もその手の遺言残さなかったそうじゃないか
遺言に縛られずに自由にできるじゃん
結果、長宗我部家は断絶、家臣たちは路頭に迷う羽目になったわけなんだが
盛親を見ても、帝王教育・後継者教育に失敗してるだろ、あれ
仙石「よし!俺のせいじゃないな!」
中富川原合戦の頃からかなり危なっかしい戦ぶりで
結局後年で戸次川合戦で猪突の末討ち取られてるし
長宗我部家は跡継ぎに恵まれなかったのが残念だな
また折角家を再興した親父の国親も
宿敵本山氏との決戦だった長浜表での合戦の勝利直後と言う
大事な時期に病で死んでるからなあ・・・
かなり運が無いと言うか、呪われた一族って感じだよな長宗我部氏は
これ見る限りだと、土佐国って太閤検地の辺りですら十万石に達してない……
山内家が土佐に入ってから3倍以上収入が増えてる
長宗我部家って、ちゃんと内政やってたのだろうか?
隠し田でも有ったんじゃない?
お国入り後の山内家の地侍への過酷な対応からすると徹底的に探しまくって帳簿上の石高増えたんじゃないかね?
太閤検地で隠し田って許されるのだろうか?
特に豊臣秀吉に逆らった、長宗我部、島津、北条、伊達の辺りなんかは、徹底的に厳しく調べられると思うのだが……
それプラスして二毛作の普及とかかな?
それだとすると、今度は薩摩・大隅・日向国で石高が激減してる理由が解んないんだけど
それにしても、十万石にも達しない土佐国を率いて、四国統一寸前まで引っ張り上げた長宗我部元親は、
やっぱりとてつもなく偉大だったのね
土佐七雄の国人の中でもとりわけ身代が低い家だったのを考えると
そこから勝ち上がって四国平定一歩手前まで成り上がったのは
やっぱ偉大だと言えるよな
それにしても日向の石高の減少はマジ半端ないな
一体何があったんだろう?
農民やめて輪島塗職人にでもなったのかな?
そう言えば、長宗我部元親はまず第一に四国統一とか言う前に、土佐国の統一から始めなければならなかったんだよな
最初っから98000石を自由に扱えたわけではなかったわけだし、
土佐国の統一以降も自分よりも身代が上の連中と戦い続けていたのか……
「鳥無き島の蝙蝠」ってのは織田信長の過小評価だよなぁ
信長の方が処置は過酷そうだよねぇ
白地城取ってそこから讃岐阿波伊予同時侵攻
四国統一した時点で飽きちゃうけどw
「チョウスケベ モトチカン」とやってたな
もっとも座布団は獲られたけどな
ひでえなw
まあ高知県民は長宗我部を貶しても
坂本龍馬を貶されない限り怒らなそうだけど
「信玄堤」みたいな遺構が残ってるわけでないし
せいぜい言って「播磨屋橋」くらいか?
播磨屋って長宗我部家の御用商人だよな?
一応初陣の場所に銅像立ってるのと所縁の神社でお祭りしてる位だね。
お祭り、じゃなく長曾我部フェスってなってて吹いたけど。
公務員に上士出身者が多いし、軌跡もそんなに残ってないし。
元親の墓なんて無双やバサラのファンが押し掛けなきゃ地元民でも忘れてて墓石倒れてたくらいだし
四国という隔離環境だったからこそ信長の制圧目標の下位にあって攻め込まれるのが遅くなって生き延びた感がある
史跡はあんまり残ってないのは確か。
ちなみにのいち動物園で土佐馬(ポニークラスの大きさ)は見れる。
あんなのに甲冑着て乗って走れるのか不安になる
岡豊情は何年か前に行ったが
城跡に歴史資料館が建っていたのにはたまげたわ
まあ廃城になったから建物類の遺構が無いのは当然だよ
でも廓跡や石積みの一部、堀切等は残ってたから
城跡巡りが趣味だった俺には満足
それに整備されていて見学し易いしね
これはひどいな
まあ長慶は魑魅魍魎が跋扈する中央政界で人間の怖さを知っていただからだろうし
元親は築いてきたものほとんど失った上、子どもが死んでボロボロだったんだろうけど
長慶さんも子供を失ったしね
ここで、2つの仮説が出てくる。
一、長年対立してきた十河一存は、長曽我部家への憎しみが『恨み骨髄』にまで達しており、我が身に変えてでも元親と信親親子をぶっ殺してもらおうと画策してああなった説。
(結果的に元親が生き残ったのは奇跡みたいなもの)
二、一とは逆に、元親が十河一存や、やはり四国征伐の以前から対立してきた仙石秀久をどさくさ紛れに謀殺・暗殺しようとし、結果的に十河暗殺には成功したものの、信親を喪うという思わぬ計算違いを招き寄せた
本当のところはどうなんだろうね
この戸次川の戦いについて記したイエズス会士の記事を参考にするならば、
2.は違うのではないかと。
この記事によると「豊臣勢が河を渡リ終えると、
それまで巧みに隠れていた島津勢が、太刀を振りかざし、
弓をもって、猛烈な勢いで敵の鉄砲には目もくれずに突撃してきたので、
土佐の鉄砲隊は味方から期待されてたにも関わらず、
発射するだけの時間も場所もなかった。」的に書かれてるので、
普通に薩摩勢の強襲戦法にしてやられたように思えますね。
