時に戦国時代、越後に助六なる農民がいた。普段は物静かな男であった。が、一度戦場に出ると、鬼そのものであったと言う。
その助六が片鱗をみせたのが第四次川中島合戦であった。
甲冑も武器も持たない助六が単身で信玄本陣を急襲。武田本陣は大混乱に陥った。
信玄をあわやと言う所まで追い込んだが、信玄もさすが。間一髪、軍扇で一撃を止めた。その時の軍扇は、今も川中島古戦場の博物館に助六のカマが刺さったまま保存されている。川中島合戦で助六が奪った首なんと246。
その後、謙信が武士に取り立てようとする。が、「あんたに夜の相手させられるからやだ」と丁重に断った。
謙信が死ぬ間際、「助六が越後にいれば上杉家は安泰だ。」と漏らしたと言う。
軍神、上杉謙信にも認められた最強農民である。
首切り茂吉と言う農民もいる。
17歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と
怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
この話大好き
信長公に蹴り入れて、生き残れると思うか?
まだ助六の方が現実味があるわW
人斬り五郎って知ってるか?
江戸時代に江戸市中を地獄絵図に変えた農民出身の人斬り。年貢を納められずに両親が地主に激しく罵倒されている
姿を見て地主を殺害してしまう。その後追っ手から逃れるべくクワを担いで逃走。江戸の町に潜伏する。
時の将軍家光はたかが農民と見くびっていたが、奉行所を五郎に襲われ18名の死者が出る。その後も米問屋、油屋などを
襲い87名の関係者を殺害する。
生活が厳しいと聞けば米倉を襲い市民に分け与えていた。
家光はこの偽善的行動を危険視し、5000の兵を動員、武装して江戸をしらべさせ、ついに米倉に潜んでいた五郎を発見する。
五郎は激しく抵抗し、193人を殺害した所でクワが折れるも奪った刀で71人をさらに殺害。江戸城内に突入し、家光の前で
農民の苦しみを訴え、切腹し、そのまま天守閣から飛び降りた。
すぐに遺体の確認に行くが、五郎の姿は神隠しのように消えていた。
今でも江戸城後の皇居近くでは、五郎さーん、と呼ぶことは禁止されている。呼ぶと五郎が怨念と共に現れ呼んだ相手が
農民でなければ殺害し地獄に引きずり込むと言われている。
農民の娘で虐殺の市と言う娘が居た。
その美しさから夜な夜な大名家の息子、有力武将の息子などを呼び出し、股間の万力で一物を潰してしまい
子孫を残せないようにする。
かの山内一豊も市と一夜をともにしてしまったせいで一物を破壊され、子孫を残せず弟の息子に家督を譲っている。
90 人間七七四年 2008/09/04(木) 16:40:46 ID:2t7uvyGo
全て事実です。
一豊はこの一夜のせいで子孫を残すことが出来なかったのです。
相手の女性は美しいが、その股間は岩をも砕く万力だと言われている。
でも所詮武将って後の方の安全なところで指揮を執るだけだろ。
本当に凄いのは50数回の戦にて生き残った伝助と言う兵士。
家族を殺されてしまい、死にたいと考え毎回最前線で戦い続けるも毎回生き残ってしまう。
伝助は伝説の兵士。
50数度の戦で関ヶ原、大阪の陣も戦うも死ねず、75歳で死地を求めて宮本武蔵とも対決している。
武蔵は伝助の一撃を避けきれずに尻餅をついたとすら言われている。
ようするに伝助は死にたくても強すぎて死ねなかったという。
そんな彼も武蔵のはからいで共に生活をするが、81歳で死す。
最後の言葉は「ありがとう、宮本さん」らしい。
茂吉ってドラマに出たヤツだろ。
ドラマでは信長に前蹴り入れて倒して目に指を当てて、潰すぞ、とか言ったんだっけか?
確か最後も才蔵に重傷を負わせるも、倒したと勘違いして油断したところを槍で刺されて「農民なめんなよ」と
体に刺さった槍を掴んでへし折り、そのまま歩き出して倒れて死ぬんだよな。
究極の農民の図だった。
かの江戸幕府創設者、徳川家康からこう言わしめた。
「この家康にすぎたる者、二人あり。唐の頭に本多平八。そして竹やぶの槍に死に神、二郎」と…
家康の参加した戦のほとんどに出陣した無双の農民である。
かの有名な三方ケ原の合戦時。伝説の焼き味噌事件が起こった。実はあれは武田軍にビビったわけではなく、退却中に二郎を怒らせたことに起因する。と言われている。
二郎は退却中の家康に付き従っていた。家康が鞭で馬を叩こうとした時、
誤って二郎を叩いてしまった。
家康はそんなことも気にとめずいたが、二郎が家康が乗っていた馬ごと止め、
「おい、お前何人を鞭でひっぱたいといてシカトしてんだゴルァ。命の灯消すぞゴルァ。」
と激怒してしまい、その恐怖から脱糞したと伝えられる。
さすがの家康もそれからは二郎が居るときには礼儀を尽くしたと言う。
関ヶ原の合戦の時にも、小早川秀秋本陣まで、単身乗り込み、秀秋に
「東軍に寝返らなければ、壊滅させっぞ」と言い、小早川軍を寝返らせた話は有名である。
その後家康からの「福島を改易させましたので、安芸、備後の所領をどうぞ」
と言われたが、頑なに固辞したと言われる。
そんな二郎にも最期の時が訪れる。
大坂夏の陣にて、自慢の竹槍を忘れてしまい、素手で出陣したが、なんの戦力にもならず。
あっと言うまに討ち死にしてしまったと言う。
二郎の亡きがらを見た家康は「代わりに正信が死ねばよかったのに」と呟いたと言う。
細かいことは忘れたが、昔ぬ~べで読んだ
確か体半分がなんかなるんだっけか?
零吉は、村で平和に暮らしておったんだが、親父が大の戦好きで、
いろんな武具を作ってはあちこちに売りあるいておったそうだ。
そんな平和な村に、遠い国の連中が、親父の作る武具の噂を聞きつけて襲って来たそうだ。
なんでも襲撃団の棟梁は、赤備えの立派な武人で、そりゃもう恐ろしい人間だとか。
村の衆が次々と襲われるのを見た零吉は、親父の置いておいた武具をとっさに身につけ、
幼い身で、この恐ろしい連中に立ち向かって行ったらしい。
あちこちで転戦した零吉だったが、分けても激戦だったのは、村の金山銀山を奪って行った連中との合戦だ。
真っ白な武具を身にまとい、村の宝を盗んでいった連中を次々と血祭りに上げていったんだな。
だがまぁ、零吉が立ち上がったのも大変遅かったもんで、連中は10年分の金銀を奪って行きよった。
困ったもんだ。
そんな零吉も年貢の納め時が来たんだな。
敵国の大城郭の出城を攻めた時の事だ。
首をぶっ飛ばされ、胴体を三つにぶった切られてしもうたらしい。
一環の終わりだわな。
関が原で散った“首切り茂吉”の一粒種が高野山に落ち延び出家して
若年ながら、大坂の陣に駆けつけ勇名を馳せたことを。
その名は茂蔵、“首刈り茂蔵” として後年庶民の英雄として歌舞伎などで大いに人気を博した。
茂蔵は少年の頃、寺を飛び出し大坂の河原者として幾年か過ごしたという。
その河原で知り合った後藤又兵衛との縁で大坂城に入城したといわれている。
こんな逸話が有る。ある時、軍議の席に列している後藤又兵衛の従者として
廊下に控えていた酷く貧しい身なりの茂蔵を、淀殿が見咎め激しく蔑んだそうな。
その刹那、茂増は疾風の如く淀殿の眼前に近づき右に左と平手打ちを繰り返し
裂帛の気迫を込め「なめっだらねぇーぞ!!」と一喝したと史書に有る。
その直後、淀殿が茂蔵に恋に似た感情を持ったのは年齢貴賎を越えた男女の妙である。
軍議に同席していた真田幸村は 、「男子たるもの茂蔵たるべし」と唸ったという。
茂蔵が首刈り茂蔵と称せられる所以となった、大坂夏の陣を語ろう。
その日の茂蔵は凄まじかった。迫り来る徳川方を古びた錆びた鎌一つで次々と
首を刈っていくのである。稲穂を刈るが如く次々とである。しかし多勢に無勢
身を寄せる後藤隊は徐々に潰走し、茂蔵は駆けに駆け、真田隊に合流したという。
真田隊に合流した茂蔵は徳川本陣に突撃する機を得た!されど味方は次々と
討ち取られていく。天賦の才に恵まれた茂蔵とて限界がある。
さりとて茂蔵は最後の精魂を振るい出し家康公に一鎌あびせたのである!!!
しかし茂蔵の錆びた鎌は長年の激戦で刃が既に使い物になってなかった・・・
事切れた茂蔵に、家康公は日本一兵(ひのもといちのつわもの )よ、と称えたと語り継がれている。
この伝承は高野山に残る高僧の日記に、“農民兵親子首切鎌”と題され今に至る。
茂蔵討ち死にの齢、命日は、奇しくも父茂吉の初陣と同じ齢、同月同日であったと記されている。
1対1ならまだしも乱闘戦なら五体満足で合戦場で帰れるわけねーよ
勝手に妄想してんじゃねーよ情弱!
伊勢長島の戦いで獅子奮迅した漁民の小六を。
小六は貧しい漁民の家に生まれた平凡な漁師であった。
しかしこの地が、阿鼻叫喚の戦の地と化した時から
小六の激動の人生が始まった。
小六は援軍に来た根来衆から火縄を教えてもらい
来る日も来る日も敵方の鉢を割ったという。
その腕百発百中で寄せ手の鉢を割っていったと伝わる。
ある日敵方深く湿地帯を潜り込んだ小六は、至近距離から
華美な鎧をまとう敵に向け必殺の銃弾を打ち込んだ
だがしかし、その玉は無常にも弾き飛ばされたのである。
その男が着ていた鎧は南蛮製の鋼の鎧だったのである。
「てめぇ卑怯だぞゴラ!」その叫びが終わるか終ざるか
その刹那、その男の近習に殺到され死んだと言われる。
鉢の小六は第六天魔王信長に挑んで死んだのさ。
引用元: ・【戦国】妄想農民伝【最強】
