だが秀吉の死後は家康の術中にまんまとはまり、上杉家の存続こそ許されたものの、所領は30万石へと大幅に減封されてしまった。
東京大学史学編纂所の本郷和人教授は「失敗の理由はただひとつ、彼が大局を見極められなかったこと」と説明する――。
■会津120万石という大領地を与えられた理由
上杉景勝は関ヶ原のときに、二重の失敗をしでかしています。失敗の理由はただひとつ、彼が大局を見極められなかったこと。
関ヶ原の時点で、彼の領地は会津でした。会津は東北の要の地であり、ここを持つ大名が東北のチャンピオン。
その地を伊達政宗が取った。しかし豊臣秀吉に「もう戦争の時代は終わった。俺の家来になれ。挨拶に来い」と言われ、
いろいろと渋りましたが、結局、家来になる。会津は取り上げられて、「おまえなら任せられる」ということで蒲生氏郷に与えられます。
そこから氏郷は見事に秀吉の期待に応え、怪しい動きを見せる伊達政宗の活動を封じる。
それで92万石まで領地が増やされるも、40歳で亡くなってしまいます。
しかし後継ぎがまだ幼なかったために秀吉は会津を蒲生から取り上げ、その会津にあらためて置かれたのが上杉景勝でした。
上杉は越後から国替えされるのですが、そのかわり、120万石という大きな領地を与えられた。
その配置には「東北地方の抑え」という意図と、恐らく「徳川の背後を牽制する」という意味合いがあったと思います。
ところが国替えののち、すぐに秀吉は亡くなってしまう。それで徳川家康の活動が活発になっていく。
■「大きな戦争」を狙っていた徳川家康
当時の家康がなにを狙っていたかというと「大きな戦争」です。戦争を起こして、どさくさまぎれに豊臣の政権を奪取したい。
これは秀吉が、織田の政権を奪取するときに行った方法と同じです。
明智光秀を始めとして柴田勝家らと、戦争に次ぐ戦争をやる。そのうち、いつの間にか織田家の政権は秀吉のものになっていた。
だから家康も、列島規模で大きな戦いを起こしたかった。それに勝つことで豊臣政権を否定し、徳川政権を作ろうとしたのです。
(中略)
■前田家の次に家康の標的になった上杉家
三成を離脱させたあとの徳川家康はやりたい放題。戦争のためには相手が必要だということで、最初に目をつけたのが前田家でした。
利家の息子、利長の代になっていた前田家に「謀反の動きあり」と難癖をつけたのですが、前田はすぐさま謝ってきた。
自分の母親、もう高齢になっていたお松さんですが、お松さんを人質として江戸に送りますと、文字通り土下座外交を展開しました。
よくよく考えてみれば、それはおかしい。当時はまだ豊臣政権下ですから、本来家康と利長は同僚です。
同僚のところになぜ人質を出すのでしょうか。しかし利長は家康の意図をきちんと理解し、徳川に優る力が自分たちにないと理解していたからこそ、謝った。
そこまでされれば家康も「謀反はなかった」と疑う姿勢を解き、お松さんは江戸に送られます。
では次に誰を狙うか。「大きな戦争」を起こすには、相手も大きくなければなりません。三成のような小物ではダメ。そこで狙われたのが上杉景勝でした。
今度は彼に謀反の疑いがかけられます。もちろん濡れ衣でしょう。
しかしこの流れは前田と同様で、もう誰もが家康が理不尽なことを言っているのはわかっている。
家康も、自分が無茶苦茶なことを言っているとわかっています。わかっていても、狡猾こうかつな家康はそんな自分に誰がついてくるか、こないのかを見定めていたのです。
(以下略、全文はソースにて)
https://president.jp/articles/-/45133?page=1
きれいな顔してたんだね気付かなかったよ
勝つ時期が少し遅れる程度でしかないんだよ
当家も戦に備えて兵糧米の買いだめしておかないと。
上杉家は憲法9条を無視するのか?
南下できるわけねーだろ
岐阜城に籠城しときゃいいものを、
うって出て、岐阜城を取られてしまっい、
その報を聞いて、家康が江戸から動いた。
岐阜城が取られなければ、家康は江戸を出られなかったし、関ヶ原も無かったはず。
実績ないから誠実アピールのエピソードばっかりw
にらみ合いの据え手打ちみたいな感じならどうなってたんだろ。毛利がすごい得しそうな気はするけど
遊びには遊びのルールがある
江戸時代になっても上杉家は残ったんだから、結果的に景勝は正しかっただろ。
毛利があんなに情けないとは思わなかっただけで
関東に攻め込むべきだったね。
即座に佐竹や伊達と組んで動いたら歴史が変わってた。
そもそも政宗なんて三国志の呂布並みに信用できないんだがw
むしろ伊達の動きを上杉が抑えていたから家康も自由に動けた
勝頼みたいに中途半端に有能なのが身を滅ぼす
総大将のくせに秀頼の子守で大阪から一歩も出ず、立花宗茂らの徹底交戦の意見を無視してあっさり大坂城を明け渡した。
関ヶ原だって西軍の主力は石田、小西、宇喜多だけだもんな。
毛利や長宗我部なんか戦わずに離脱。
毛利が凄いのは西軍諸将の大半が取り潰されてるのに、総大将のくせして2ヵ国も残してもらっている
普通なら徳川に感謝感謝と思われるのだが、完全に徳川逆恨みで正月に徳川征伐の儀式をしているとかちょっとどうかしている
どう見ても石田や宇喜多、小西、大谷、平塚などに枕元に立って恨まれる立場 なんとか大名で残った上杉や立花からは島津共々文句を言われる側でどこをどうして徳川恨むという話になるのか
同じ改易組の佐竹、上杉、立花が徳川に遺恨がないのに、関ヶ原のあまりにひどい振る舞いに逆ギレで誤魔化しているとも言える
さらに凄いのは山口が会津にもう100年経ったし和解をとか言い出す神経で、260年逆恨みしてた長州の言うセリフじゃない
関ヶ原と幕末の長州の動きは全く関係ない
結果的に関ヶ原で西軍だった毛利島津が倒幕派の中心になったから後付けでそう語られてるだけ
だいたいそれこそ上杉は奥羽越列藩同盟に加わってるわけだしな
正月に毛利家当主が倒幕の確認をしたとかいうのも裏付けのない与太話に過ぎない
関ヶ原の西軍と幕末の倒幕運動にはなんの因果関係もないよ
長州が関ヶ原の恨みを幕末まで抱き続けたのは事実でしょ。
広大な領地を没収され防長の僻地に押し込められたため、
家臣団の多くは百姓に身を落とし貧困にあえいだ。
身分を超えて反徳川意識が根強かったのはそのため。
ちなみに毛利は倒幕後に自分が将軍になれると思ってた。
「あっぱれ源二郎」
って傍観してたイメージ
どっちにしろ、上杉景勝の動きなんか
想定の範囲内だと思うぞ。
家康の口車にのって静観したら領地大激減
穴の毛まで抜かれましたとさ
どうせ上方へ引き返す家康らを追撃してれば…とか机上の空論ほざいてんだろ
伊達やら最上やら堀やらが上杉領を狙ってんのに家康追撃、関東乱入とか無理に決まってんだろが
東国には上杉の味方は全くいない孤立無援なんだぞ
西軍方っぽい佐竹とかも結局は旗幟を鮮明にしてないし
そもそも最近は上杉と三成らの間に連携とか無かったってのが定説になってるからな
上杉からしたら味方かもよくわからん三成らのために、伊達最上に背後をつかれる危険まで犯して動く義理はない
寝返るの分かってた小早川を要所に置いたり
言うこと聞かない馬鹿島津とか西側がダメすぎる
だけど郡山って城ねーんだよなー😵
要衝は郡山だとしても、その交通路を睨みつける
要塞は会津盆地において郡山に、出撃したほうが勝てるということじゃね。
郡山って明治時代に開拓された街だろ
ホント家康が、関ヶ原に向かった後、背後突いてたら江戸時代はなかったろうな
三方ヶ原や姉川でとっくに死んでたよ
毛利輝元が信じられんほどのバカ殿だったので結果的に無能な家康が勝てただけ。
秀忠に大軍を預けて中山道を進ませるとか家康は景勝以上にミスを犯してる。
これ
秀頼を手中に収めて圧倒的に有利な立場にあったのに
栃木まで来たところで、大阪で三成が家康討伐の軍を上げたことに気付いて、引き返したんだよな
上杉が背後突けば挟み撃ちだったのにw
情報戦に弱いね、上杉家は忍者いなかったのかね
絶対そのすきに伊達家うごくんだけどどうすんの?
堀だって動くし最上も動くし佐竹義重も動く
上杉が行けるわけないよね
明智とか実は生きてて家康着きの坊主になって豊臣家を潰したなんて与太話も出てきてるし
引用元: ・
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1619666174/