上杉謙信の親父の長尾為景は守護の上杉氏を殺し激怒した関東管領上杉氏も殺した悪党だよな
統一地方選後半、86市長選に161人が届け出
https://www.yomiuri.co.jp/election/local/20190414-OYT1T50152/
引用元http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1555311804
永正の乱
永正3年(1506年)9月、越後守護代長尾能景が越中で戦死し、長尾氏の家督を継いで越後守護代となった長尾為景が、永正4年(1507年)8月、上杉定実を擁立して守護上杉房能を急襲。関東管領上杉顕定(房能実兄)を頼り関東への逃亡を図った房能を天水越で丸山信澄らと共に自害に追い込んだ。
これを討たんとした顕定は永正6年(1509年)、報復の大軍を起こすと為景は劣勢となって佐渡に逃亡した。しかし翌永正7年(1510年)には寺泊から再び越後へ上陸。為景方が反攻に転じると坂戸城主長尾房長は上杉軍を坂戸城には入れず六万騎城に収容させた。為景軍が六万騎城に迫ると上杉軍は退却したが、援軍の高梨政盛(為景の外祖父)の助力もあり、長森原の戦いで顕定を戦死させた。この戦いで、顕定に従軍していた長尾定明や高山憲重らも討たれており、山内上杉家の軍事力は大きく減退した。
秀吉も本能寺の変の黒幕っぽいしな
秀吉なんか取り立ててくれた大恩人の息子と嫁を殺してるからな
こええよ
物凄く魅力的な人物だったぽいから
行動と合わせて考えると、多分サイコパス
武士階級じゃないから家に忠義を尽くすと言う思想がなかっただけかと
信長本人には絶対の忠誠誓ってた
息子は忠義誓うに値しないボンクラ(つまり天下を太平に導けない、再び戦国に戻す危険のある無能)と思ったんだろう
秀吉が担ぎ上げて立場が逆転すると改易した織田信雄と間違えてない?秀吉が家族ごと皆殺しにした織田信孝は信雄と違って有能だった
信雄が記録的バカなだけで
信孝もせいぜい平凡な将だよ
信雄も秀信もいるのにうまく立ち回れてないし
その祖父の長岡能景も強かったが越中の一向宗に討ち取られた
謙信の父の為景も強かったが越中の一向宗に苦しめられ一時は討ち取られた噂が出る大怪我を負った
戦国時代最強は戦国武将だけではない
こういうレスが見られるからこの手のスレは面白い!
一向宗率いてた僧のほうが謙信らより上って事か
当時のお坊さんは京で学んできた知識階級だし、
一向宗の門徒は領内を侵す勢力には死をも恐れずゲリラ戦を挑むから
遠く越後から連れてきた足軽雑兵とは戦意が段違いな面はある
どんな死に方をしても一向宗門徒は極楽浄土が待っているからな。
そんな一向衆数十万を百分の一でボコった
朝倉宗滴とは一体…
むしろ力のないやつが上にいると下が迷惑
結局本願寺と和睦してどうにか上洛のために越中を通ることができた
やっぱ北条が一番
北条も早雲は足利氏の城で女子供まで皆殺ししてるし
天正壬午の乱では武田遺領で略奪してたら徳川軍に隙を突かれて大敗したりとたいがい
秀吉も甥とその一族皆殺しにしてるし
家康も信長に圧力かけられたとはいえ長男を自殺に追いやってるからな
秀忠も弟を数十年間幽閉してる
家康は長男を始末したくて信長にお伺いを立てた説もあるな
家族愛なんてもんは無いんだよ
秀吉と大政所や秀長は現代に近い家族だったかもしれん
ほこっとするエピソードに天下の贅を味わった秀吉が一番旨かった食い物はと聞かれて、若い頃いとこの畑仕事を手伝った時に福島政則のカーチャンが握ってくれたおにぎりが一番旨かったと応えた事
まぁ、サルお得意のリップサービスだとは思うが
既出の話かも知れないが…
織田信長の覇業を継ぎ、見事天下人へと駆け上った豊臣秀吉。
早喰いで濃い味付けを好んだ織田信長、大名になっても麦飯を通し
旬の魚や野菜以外に箸をつけなかった家康など、食事の嗜好にも
戦国武将達の逸話は多いが、そんな彼らと並び賞賛されるラスボスこと
豊臣秀吉は、というと…黄金で茶室を作ったり大坂城に三百人の妾を囲ったりと
豪奢なイメージがある反面、食事については…割と庶民的な感覚だったそうである。
『異説まちまち』には、そんな豊臣秀吉の食に対する思いが書き留められている。
豊臣秀吉>>いやぁ、余も偉くなって酒食も美味珍品思うままになったが
やっぱり、何がこの世で一番旨いかといえば…アレじゃな。
『飢えそうなほど腹が減ってる時に喰うもん』に勝るものはないわ。
余が身分卑賤であったころ、よく叔母の家へおつかいに行ったんだが
叔母が『お前が来ると思ってて用意してあったんだよォ』って、
大椀いっぱいに麦飯を盛って、棚においてくれてあったんだわ。
こっちも忙しいからゆっくり喰う暇も無い、その木椀の麦飯へ水を掛けて
立ちながら喰って、急いで帰る。
これ、毎度毎度の事なんじゃが…ありゃあ本当に旨かった。
余も天下人になって色々飽食美食に明け暮れたが、あんときの
麦飯ほど旨いと思ったもんは一つも無い。'`,、('∀`)'`,、』
ちなみにこの時代の麦は本当に水気がなくぱさぱさで、急ぐ急がずに関わらず
水か湯をかけねば喰えたものではなかったそうだ。おそらく天下人になってからは
毎日銀シャリであったのは間違いない秀吉でも、一番うまかったのは
腹が減ったときに喰うものだった、という身も蓋も無いが気障も飾り気もない
庶民的なことだった。
ほかにも、大道寺友山(大道寺政繁の曾孫)の覚書によれば、
秀吉は生まれ故郷の尾張中村には年貢を課さないかわりに、年始祝いの挨拶に
大根と牛蒡を献上するようにと命令を出している。尾張中村の大根と牛蒡、といえば
名物だったらしく、貧乏な頃に食べたその味が忘れられなかったのだろう。
そんな豊臣秀吉の(天下獲った割には案外庶民的側面も忘れてなかった)良い話。http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2884.html