あなたの働きこそが重要――。織田信長(1534~82)が室町幕府の滅亡前年の1572年、将軍・足利義昭の側近だった細川藤孝(1534~1610)に宛てた書状が見つかった。永青文庫(東京・目白台)と熊本大学が6日、発表した。信長と義昭の側近衆との関係が悪化する中、畿内の領主層を味方につけるよう依頼する内容で、専門家は「当時の信長の置かれた状況がわかる貴重な資料」と評価する。
細川家伝来の資料群を保管する永青文庫と、熊本大学永青文庫研究センターの共同調査で、2022年8月に東京にある永青文庫の収蔵庫から発見された。
書状は13.7センチ×84.4センチ。花押(かおう)の形などから、義昭が反信長の兵を挙げるも敗れて京都から追放され、室町幕府が事実上滅亡した1573年の前年、元亀3(1572)年8月15日に書かれたものとみられる。この年、義昭の側近衆が誰一人手紙や贈り物をよこさない中、「あなたからは、初春にも太刀(たち)と馬とをお贈りいただき、例年どおりにお付き合いくださる」と礼を述べ、「南方辺(みなみかたあたり)(山城・摂津・河内方面)の領主たちを、誰であっても、信長に忠節してくれるのであれば、味方に引き入れてください。あなたの働きこそが重要なのです」などと記す。
稲葉継陽(つぐはる)・熊本大学永青文庫研究センター教授(日本中世史)によると、元亀3年段階で信長と義昭の側近衆との関係は極めて悪化していたが、細川藤孝だけが信長と通じ、内密に領主層への働きかけを依頼されていたことなどがわかり、「義昭の挙兵が失敗した裏には細川藤孝の働きがあったことがうかがえる。藤孝の果たした歴史的役割が改めてクローズアップされる貴重な一次史料だ」と話す。
信長の書状は800通弱が現存すると言われ、永青文庫所蔵品はこれで60通目。他の59通はいずれも国の重要文化財に指定されている。書状は永青文庫で10月5日から始まる秋季展「熊本大学永青文庫研究センター設立15周年記念 信長の手紙―珠玉の60通大公開―」で公開される。(編集委員・宮代栄一)
■細川藤孝とは…(以下有料版で、残り673文字)
朝日新聞 2024年9月6日 16時00分
https://www.asahi.com/articles/ASS9610N0S96UCVL03YM.html?iref=pc_ss_date_article
細川藤孝が光秀につかなかったことの伏線なのかな
藤孝は信長に国持大名にしてもらって感謝していた
謀反に加担する理由がまったくない
明智を裏切って豊臣に付く
豊臣を裏切って徳川に付く
>>7
長い者に捲かれるのが家訓なのかw
あの時代に勝ち残りそうな相手選んで巻かれに行く眼力と主とっかえひっかえしても時代の強者に必要とされるだけの能力もってたって考えるとすごい人物ではあったんだろうな
そらトップに立って勝ち残ればそれが一番だろうけどそれは無理だって見切りつけて誰かの下につくのも大事なんだと思う
自分の城が攻められたときに天皇の歌の師匠かを利用して天皇家から和睦してもらって命拾いしたとか
セコい
関ケ原のときじゃな
まさにコレなんだよな
細川親子こそ小早川なんぞを超える戦国最大の裏切者
>>18
「細川親子」ってのも、実は言論操作されている、洗脳されてるからな。
当時はちゃんと信長の妹婿で、細川本家(細川京兆家)の細川昭元(信良)ってのが別に居て、
藤孝・忠興親子は「長岡親子」だったわけだから。
合戦の真っ最中に寝返るのと
つく勢力を選ぶのとは全く違うだろ
荒巻なんとかみたいなのが最悪だったような
名前思い出せねえ
>>202
スカルチノフ
それじゃないだろうとわかってるが言わずにおれんかった
荒木村重か
信長に反旗を翻し、負け確になると城を明け渡せば妻子は助命すると信長が情けをかけたのに、それを拒否して一族郎党処刑されて一人で逃げ延びた畜生
そうそれ
そいつが戦国一の裏切り者だろ
実に賢い
志で玉砕したら終わりだもの
そうして生き残った子孫が俺ら
今川家とかも派手に負けた割に大復活だものな
>>7
明智に味方するという事は織田を裏切るということ
本能寺の変の後の行動は何もおかしくない
本当に秀吉の子なのか怪しい人物に従う必要なんか無いから徳川につくことは何もおかしくない
これで残ったんだよなぁ
サラリとやってのけてるからなぁw
イメージだけど、おれは細川家>>黒田家だなぁ。逆の人もいっぱい居るだろうけど
こんなの大勢いたろ
じゃねーと戦国時代を生き残れねーよ
いわれてみれば生き残って名を残した人はみんなやってんだよな
時勢を完璧に読めてたわけだ
裏切っても裏切りと思わせない仕方ないと思わせる
これが現代でも経営者に必要
この時代の武将は多かれ少なかれそんなもんだよ
1人の主に忠義を尽くすなんてのが定着したのは江戸期に入ってからのこと
>>7
一歩間違えれば一族路頭に迷うか殺されてた時代に3度も正解を選んだ目利きだね
選択肢間違えたおかげでそれまで拡大してきた領土没収だけでなく消された大名の多いことよ
先祖は佐々木道誉だからなw
道誉の子孫の京極高次は明智光秀についたんだな
え、細川は宇多源氏なのか
三淵氏の養子説が正しければ宇多源氏じゃなくないか?
細川家は凄いよな
今の細川護熙まで続いて近衛家まで結びついてるし
それ!近衛家経由で、さらに表千家とも裏千家とも繋がってるって知った
いくら文化継承の家だからって、へうげすぎるわ
戦国武将は滅茶苦茶筆まめじゃないと勤まらんのよ
関係を上手く維持したりしてないといつ離れられるかわからんし
それもそうだし、あの時代よく相手にきちんと届いたもんだと思うし
またそれが800も残ってることにも驚き
>>8
信長もまあまあ残ってる方だね
原本が800通くらいあって写しも含めると約1400通くらいある
ちなみに秀吉は7000通、家康は3700通、筆まめで有名な伊達政宗は4500通ほどある
>>8
細川親子は異常に筆まめ。
異常に。これ大事。
筆まめなのは息子の忠興で関ヶ原の戦い以降だけでも約2000通ある
幽斎の書状はそんなにないよ
なぁ、西暦1100年と1600年って
1200年の人からしたら1600年の日本は劇的に進化してるって思うんだろか?
1600年の人が2024年見るのと
衝撃の受け具合はやっぱ違うよね?
服装とか変わってるし、食い物も変わってる。
醤油とか味噌を1200年の人は知らないから劇的に食い物がうまくなって感動するはず。
1200年の奴は鉄砲知らんよ?
1200年から見て1600年ならさほど変わってないんじゃないか
1800年の人が1900年を見るのが一番驚きそうに思う
進化したのは何で?
3千年前~2万年前は土人みたいな生活してたのに
大きな気候変動がなかったから
権謀術数細川家のDNAは生きている
> 細川氏…鎌倉時代中期に足利義康の曽孫である義季が三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)を本領としてこれを名字としたのに始まる。
ま た 三 河 か
ちょっと下にいて勝ち組につくのが家が生き長らえるコツ。
割拠主義の毛利も悪くなかったけど関ケ原読み違えたw
室町でブイブイ言わせてた細川とは
主君を直接手に掛けるとか幽斎さんには地雷やろ
あの鑑定って学術的にも認められるモンなの?
認められないな
ただの商売用の鑑定士だから
耀変天目の回が良い例
>>111
鑑定団に出た書状も史料集や図録、機関誌に掲載されたり博物館などで出品されたりしてるよ
いくつか例を挙げると、この秀長宛の羽柴秀吉書状は吉川弘文館から刊行されてる『豊臣秀吉文書集8』に収録されてる
https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/smp/kaiun_db/otakara/20150721/03.html
この武田信玄書状は2021年に山梨県立博物館で開催された「生誕500年武田信玄の生涯」に出品されてるな
https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/smp/kaiun_db/otakara/20161122/02.html
へーちゃんと学術的に利用されてるのはいいね
その秀吉の手紙は結構な長文だけどどんな内容なの?
>>146
翻刻は画像の通り
ちゃんと番組の依頼人の名前が史料集(『豊臣秀吉文書集8』)にも掲載されてるな
本能寺の変から4ヶ月後に弟・秀長に宛てたもので内容は、
・南条元続が毛利方の攻撃を受け退却したことにつき、敵は伯耆国の泊や但馬国の青谷まで出馬してきたとのことなのでそう心得るように
・もし鹿野城が包囲されたら宮部継潤と亀井茲矩によく申し伝えて、敵が退却しないよう食い止めて、秀長が援軍として出馬し敵を討ち果たせ。油断するな
・来る10月15日に京都で行う信長の葬儀には毛利方への備えとして秀長の軍勢は置いていき、千人ばかり連れて上洛するように
・もし信長の葬儀の前に毛利勢が鹿野城を包囲するようなことがあれば、秀長は上洛する必要はないが、鳥取まで陣替えしてそこで敵を討ち果たせ
この書状は右筆によるもの
信長の自筆書状は現存してる800通の内10通もないよ
信長が書いていてどんどん興奮していくのが分かる佐久間折檻状はいいよな
よく消失しないで残っていてくれたと思う
残念ながら佐久間宛折檻状の原本はないな
伝わってるのは信長公記や尊経閣文庫にある写しのみ
まあ写しだけでも伝わってくれて良かったけどね
>>144
さあここで、
秀吉の嫁宛の例の書状の出番です。
ノブに萌えるわ。
>>145
「のふ」と署名された信長書状はそのおね宛の書状とふもじと言う女性宛の二通でしか確認できないんだよな
徳川家康はお亀の方・阿茶局宛の書状で「家」、伊達政宗は娘の牟宇姫宛や振姫(息子忠宗の嫁)宛の書状で「まさ」と署名している
関ヶ原合戦前に殆ど空城に近い状態で留守役の幽斎が田辺城を籠城した際にも
朝廷から「細川幽斎はガチの国宝だから絶対に殺さずお前ら講和しろ」という勅命が下されたほどだしなぁ
まさに「芸は身を助ける」だな
正真正銘の足利幕府の終焉は足利が秀吉配下になった1589年
※諸説あります
>>165
足利氏の分家
足利義季が三河国額田郡細川郷
(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)を
本領として これを名字としたのに始まる
足利尊氏のもとで勢力を伸ばした
●織田信長の史実に最も近い肖像画
信長の肖像は従来緑色の服装の肖像画(長興寺蔵)が有名で教科書にも載ってきたが
近年の歴史研究の書籍ではこの肖像画(大徳寺蔵)の採用が増えている
http://www.shouzou.com/mag/p/daitokuji700px.jpg
https://pbs.twimg.com/media/ElauVpeU0AU2VEr.jpg
大徳寺の肖像は生前の信長に面会した絵師の狩野永徳本人が制作したものでより写実性に優れ、
信長は丸顔ではなく痩せた面長な顔であったことが伺える。
(長興寺蔵)は永徳が安土に赴く間実家の留守を預かった弟・元秀が(大徳寺蔵)を模写して描いたものと考えられ、他に残る信長の肖像もこれらの模写と考えられる。つまり全ての信長肖像のオリジナルがこの作品である。
また一部で"宣教師が描いた信長"と流布される写真のような「肖像画」は、当時の西欧にこのような画風は存在せず確実に"贋作"であり、まともな書籍には採用されていない。
作品には明治創業の写真館の所有印が残り、信長の肖像画からイメージして作成したモンタージュの類いだろう。
引用元: ・
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1725634487/