どうして愛知県は徳川家康も豊臣秀吉も織田信長も輩出したのに首都になれなかったの?
引用元http://nozomi.2ch.sc/test/read.cgi/liveplus/1533355873
開いたからだよ。
名古屋が首都はあかん
よそもんが入ってくるで
近代的な考えはなかったな。
ぶらタモリで、謎を解いて貰えばよかったのにねww
お前らって本当に信長秀吉家康のことを誇りに思ってるのか?
秀吉なんて下手すりゃ愛知県民より滋賀県民のほうが親しみを持っていたりして
濃尾平野 1,800km^2
面積が違う、生産量の可能性も10倍違うことになる。
ちなみに北京市の面積、16,810km^2である。
関東平野>畿内>濃尾平野
愛知を首都とすると畿内にできた勢力に押しつぶされてしまう
ならば畿内を抑えようってんで愛知を捨てる
畿内と中部、大差ないと思われる。が、やはり畿内の方が上なんだろうね。少なくとも歴代の各勢力はそう考えてた
関東は鎌倉幕府があったし、元々畿内に張り合うだけど力があった
古代においてもそうらしい
二つの日の丸
西日本の日の丸、夕焼けに見える。日没する処だな
東日本の日の丸、これが現在使われてる日昇る処の日の丸だな
出雲勢力が大和に負けたのも本拠地の差だろうね
戦国時代に出雲を本拠地とした尼子も勢力を拡大したけど、あれが限界なんだろうね
畿内+中部 VS 関東
これだと畿内が勝つんだ
関東が畿内に勝つには少なくとも東海道は抑えないといけない
だったからじゃないの。
権力志向で言えば、応仁の乱があったにしても、都が京都で、
天下を取るには京都を目指す、というのが、目標だった
信長も、秀吉も京都を目指す
人質生活で育った徳川にしたら、
織田や豊臣の繋がりばかりの愛知では、いろんな繋がりで安心もできないだろう
近い場所で群雄割拠で、正面切って戦うより、少し離れて様子を見るというか、
武将として、部下を整えて力を蓄える事では、徳川は後発だから、
自然とそうなる(距離を取る)しかなかったと思う
それに何より、あの時代では、
文化の中心、京都以外は、日本全国が田舎だったようなものだから、
上昇志向の信長や、出身にコンプレックスの秀吉にしたら、
「京都を押さえたら、天下一」「あこがれの京都」って感じで、
徳川にしたら、関西も愛知も、織田や豊臣の残党、繋がりが多い場所で消耗するより、
距離を置き、押さえとして、尾張(愛知)と紀州に徳川家を作ってる
人質で育った家康にしたら、地元愛もなかっただろうし
オレもそう思う、同感だな
家康は天皇の京都から遠のいて、雑音が少ない江戸にした
遠隔操作を考えた家康は大したもんだよね。北条を見習ったな
家康は秀吉に「行け」と言われたから行くしかなかった。
せっかく手に入れたばかりの大好きな駿河、金山のある甲斐を手放すのは相当悔しかった
らしい。
が、まあ、源氏を名乗って認められたし、後の事考えたら悪くない転勤だと思ったんだろ。
秀吉は大阪の人
家康は東京の人
東北開拓まで考えたらやはり関東が拠点になるわ
海が割と波が静かで海路でパスしやすいから、武士の時代、権力者が本拠にするには守りに向いていなかった。
その点、江戸も本来は守りにくい地形なんだが、愛知より西国に遠かったし、
江戸までの交通要衝や江戸周辺に親藩譜代を置くことで江戸は徳川幕府の本拠たり得た。
>>38
平野の広さに関しては東は岡崎、北は岐阜、西南は津伊勢辺りまでを考えれば、
関東平野には及ばずとも関西より広い。東を豊橋浜松まで入れるとさらに広くて、
広さに関しては十分(関東平野だって人口が多いのは東京神奈川埼玉千葉くらいで、
茨城とか栃木とかグンマーとか土地を持て余してる田舎で、過疎のところすらある)。
ただ本州各地への距離を考えれば東京のほうが分があるのも確か。
もし秀吉に江戸に左遷されなかったら、徳川幕府の本城は家康が左遷直前まで住み、
秀忠に将軍の座譲った後また戻って来たぐらい気に入っていた駿府城だった可能性が高い
そうすると明治新政府は天皇を今で言う静岡県に連れて行って首都にしただろう
信長も尾張→美濃→近江と、京に向け本拠地を移転して行ってるし
秀吉は大阪に城と町を作り豊臣家の本拠地に
戦国BIG3に取って本拠地として尾張三河に固執する理由が無かったのが原因かね
駿府は気候だけじゃなくて東西を大河川(大井・安倍・富士川)に囲まれ、
背後は急峻な山岳で要害の地、しかも東海道が通る交通要衝の地だったんだよ。
そこを家康自ら押さえてりゃ豊臣の息のかかった西国大名は容易に江戸にたどり着けなかった。
開発の余地は十分だったんだがな。
支配権の安定した故地よりは新領に腰を据えて鎮撫せねばならない乱世の要請から
天下人を輩出したことでかえって地位低下を招いた。
三英傑+源頼朝の出身地なのは皆承知してるが「だから何だよ?」だし、郷土愛が希薄で「オラが村を日本一に」などとは考えない。
7割の県民が一生をここで過ごすが、それも損得勘定の結果そうしてるだけ。
もっと首都に適した場所があるなら「別にそっちでいいがね」と考える。だから誰も名古屋を都にしなかった。
しかも政治・外交の中心である京都に近い。
この発想は、平清盛に近い。
家康は、関東に封されたのに加え、
上記の例を踏まえ、安定には武力が不可欠とし、頼朝にならって関東を中心とした。
古くから関東は荒ぶる坂東武者の産地であり、ここを抑えることの重要さを強く認識したのだろう。
尾張・三河はそれら地域を結ぶ、要衝として発達した。
こういう土地を孫氏の兵法では「衢地」と言い、攻めやすく守り難い土地。
基本、首都を置いてはいけない場所。
攻め込まれやすい不安を感じさせる地だからじゃないかな。