応仁の乱後のドロぬま時代で好きなのは誰?
1:某7代将軍:2012/02/23(木) 23:40:01.43 ID:.net
引用元http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1330008001
2:日本@名無史さん:2012/02/24(金) 03:16:37.48 ID:.net
畠山尚順
3:日本@名無史さん:2012/02/24(金) 14:00:48.21 ID:.net
足利義尚
4:日本@名無史さん:2012/02/24(金) 14:02:01.24 ID:.net
太田道灌
5:日本@名無史さん:2012/02/24(金) 14:03:15.00 ID:.net
長尾景春
長尾 景春(ながお かげはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。白井長尾氏5代当主。北条早雲と並ぶ関東における下克上の雄の一人である。景春が文明8年(1476年)から数十年にわたって反乱を続けたことは、結果として関東における上杉氏の勢力を大いに衰退させることに繋がった。早雲は景春を「武略・知略に優れた勇士」として賞賛したという。
6:日本@名無史さん:2012/02/24(金) 14:05:47.68 ID:.net
北条早雲
7:日本@名無史さん:2012/02/24(金) 14:22:26.62 ID:.net
足利成氏
8:日本@名無史さん:2012/02/24(金) 14:26:35.76 ID:.net
織田敏定
9:日本@名無史さん:2012/02/24(金) 14:56:37.74 ID:.net
畠山義就
畠山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。河内・紀伊・山城・越中守護。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家の1つである畠山氏出身。父は管領畠山持国、母は側室。幼名は次郎、初名は義夏(よしなつ)。子に修羅、義豊(基家)。猶子に政国。家督相続を巡って従弟の弥三郎政久・政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。
10:日本@名無史さん:2012/02/24(金) 15:02:36.04 ID:.net
上杉顕定
11:日本@名無史さん:2012/02/24(金) 16:40:18.52 ID:.net
斯波義廉
12:日本@名無史さん:2012/02/24(金) 20:03:19.09 ID:.net
一休さん
14:日本@名無史さん:2012/02/28(火) 17:36:44.06 ID:.net
地元だから赤松政則をおしたい
人物はどうあれ大領君主にのし上がれて
鍛冶が趣味なんて…
赤松 政則(あかまつ まさのり)は、室町時代後期の武将・大名。加賀半国・播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。赤松家の第9代当主(当主在職:長禄2年(1458年)9月 - 明応5年4月25日(1496年6月6日))。嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。
15:日本@名無史さん:2012/03/03(土) 04:29:45.48 ID:.net
足利成氏
17:日本@名無史さん:2012/03/03(土) 08:07:24.49 ID:.net
三好長慶だな。
三好政権が中央を抑えていた期間は1549~1568の19年。
織田の1568~1582の14年より長い。
18:日本@名無史さん:2012/03/03(土) 16:29:00.01 ID:.net
流浪の将軍義晴かな
まあ10代から15代はぶっちゃけ全員流浪の将軍だけど
細川藤孝は義晴の実子説もあるな
19:日本@名無史さん:2012/03/03(土) 20:11:12.28 ID:.net
古河公方三代目の足利高基
◆彼のとった行動が失笑モノで高基はアホの子、とネタに出来るとこ
◆公方の資質・権威とは何か?関東諸勢力を束ね、従えるのに必要な要素は何か?を知るための
歴代公方(小弓公方を自称した弟義明含む)との比較材料として最適なこと
◆享徳・長享の乱以降の関東争乱を泥沼化させ、のちに北条氏が台頭するようになるきっかけが
高基自身が引き起こした、父・政氏との親子間紛争、と関東内の権力の移行という歴史的観点から見ても外せないとこ
そんな理由で、高基さんはもう少し知名度上がってもよいと思う…
22:日本@名無史さん:2012/06/01(金) 20:59:56.18 ID:.net
日野富子、私も。
あの金儲けの才能はうらやましい。
23:日本@名無史さん:2012/06/02(土) 15:29:51.04 ID:.net
畠山政長
24: 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2012/07/03(火) 15:40:32.26 ID:.net
いや、応仁で泥沼なんじゃなくて、
中千代、そして武蔵千葉合戦が終わってからの150年が泥沼だろ。
明らかに15世紀の戦争規模、死者のほうがはっきりいって16世紀の戦争より多いんだから。
調べると
総動員100万以上 合戦参加50万軽く以上 医療や産業の不備その他を想定して
死者20万軽く以上
とか頻発してんだよ。逆に16世紀は会戦が増えても死者は存外少ない。
25: 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2012/07/03(火) 15:44:12.79 ID:.net
スマン
そんな規模じゃないな。
ほぼその1.5~2倍くらいの規模になってる。人口比からすれば、
何がしかどこかで戦争従軍関連収益に当時の人口の10パーセントくらい関与してたんじゃないのか?
29:日本@名無史さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:.net
>>24-25 城内の人間を皆殺しとか、立て籠もった兵員(のみならず一般人も)なで切り、とか、
中近世の無茶な殲滅戦の多くは16世紀のような気がする
泥沼期の開始はおおむねそんな感じかも
南北朝時代ぐらいから戦争の動因規模が拡大して雑兵が増えてる希ガス
27:日本@名無史さん:2012/10/14(日) 21:18:56.54 ID:.net
骨川スネオ
元は目付の頭目で、侍所所司代多賀高忠に仕え、盗賊の追捕を行っていた。応仁元年(1467年)の応仁の乱で足軽大将として活躍、細川勝元に金品によって勧誘され、東軍に属して戦った。伏見の稲荷山(京都市伏見区)に拠点を置き放火や後方攪乱を担当したが、翌応仁2年(1468年)、山名宗全、斯波義廉、朝倉孝景、畠山義就、大内政弘らの大軍に布陣していた稲荷社を包囲されると、女装して包囲網を脱出しようとしたが露顕し朝倉孝景に討ち取られた。道賢の記録が載る禅僧の日記での名前の初見は、3月15日条からであり、21日までの6日間の活躍しか記述されていない[1]。その最期を「昨日まで稲荷廻し道賢を今日骨皮と成すぞかはゆき」と歌で皮肉られた。なお、苗字の骨皮から皮革業を営んでいたという説もあるが、骨と皮ばかりの痩せた者という外観からきているかもしれず、どちらともいえないとされている。
28:日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:.net
シヴァ義敏
30:日本@名無史さん:2013/09/16(月) 21:51:51.87 ID:.net
赤松政則
31:日本@名無史さん:2014/06/26(木) 08:46:14.72 ID:.net
西陣南帝かな
西陣南帝(にしじん なんてい/にしじん の なんてい、享徳3年(1454年)? - 没年不詳)は、後南朝最後の天皇。小倉宮を称していた。
32:日本@名無史さん:2014/07/01(火) 23:25:54.47 ID:.net
応仁後だと、おれは畠山義就かなあ
33:日本@名無史さん:2014/07/08(火) 17:44:19.19 ID:.net
畠山義就が一番だな。とにかく強い。攻撃・籠城・水攻め、なんでもOKの猛将。
同じ兵力で戦わせたら、日本一ではないか。
次は畠山政長だな。5回やれば1回は義就に勝つだろから。
34:日本@名無史さん:2014/07/09(水) 04:53:20.88 ID:.net
この時代だと越前の朝倉孝景もなかなか
35:日本@名無史さん:2014/07/10(木) 01:34:36.48 ID:.net
西軍って、領地から京都へ向かうルートの途上に東軍の領地が横たわってて、
補給どころか軍の移動すら難しい状態だよな。
最も主要なルートである、瀬戸内海から淀川遡上ルートの場合、
淀川の下流の方で南岸北岸とも細川領の部分がある
日本海側からのルートだと、メインの若狭から湖西のルートだが、若狭の武田が西軍
但馬から丹波経由なら丹波が細川領
そんな不利な地勢で、兵力も東軍より少ないのに、よく戦い抜いたなあ。
36:日本@名無史さん:2014/07/14(月) 11:16:44.64 ID:.net
>>35
淀川を止めれば西側の流通ルートを止めれるからな
38:日本@名無史さん:2014/11/24(月) 23:09:01.68 ID:.net
>>35-36
大阪府内の淀川以北のほぼ全域と大阪市内のほぼ全域が細川領だから、
細川氏が総力を挙げれば大阪湾から京都に入るルートはほぼ完全に封鎖できる気はするな
40:日本@名無史さん:2016/04/07(木) 01:27:48.47 ID:.net
伊勢貞親
41:日本@名無史さん:2016/04/07(木) 10:22:29.87 ID:.net
日野富子もなかなかだと思うが
何せ、敵味方問わずに金を貸すとか
やることがむちゃくちゃ
43:日本@名無史さん:2016/06/20(月) 19:19:20.58 ID:.net
>>41 死の商人
44:日本@名無史さん:2016/06/21(火) 16:54:53.49 ID:.net
乱後じゃないけど日野富子。しっかり儲けてるのねこいつ。
45:日本@名無史さん:2016/06/21(火) 21:22:47.34 ID:.net
細川政元
677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 15:24:46 ID:rx4PgaG3 細川は応仁の乱では没落してないよ。 守護大名にありがちなお家争いもなく四国をがっちり支配、勝元の子・政元は幕府権力を独占してむしろ強くなってる(幕府自体が小さく、弱くなったから強いとは言えないかも)そのままやってればいいのに、政元は変なことを言い出した。「俺、魔法使いになる」断食したり、とびあがったり、やおら真言を叫んだりと奇行をするようになった。政務を怠ったわけではないが、その影響は政元が死ぬと現れた。「女とすると魔法が使えなくなるのか。じゃぁ俺生涯童貞!」といっていたからだ。さあー、四国にも戦国時代がやってきた。政元の後継者の座をめぐり、南北朝以来四国を支配し強い団結力を示した細川家も分裂と凋落の時。その後は家宰の三好、さらにその家中の松永が台頭するのはご存知のとおり。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3227.html
46:日本@名無史さん:2016/06/22(水) 23:43:52.83 ID:.net
斎藤妙椿の名が出てこないのが不思議
美濃守護土岐氏の守護代斎藤利明(宗円)の子で,美濃斎藤氏の基礎をかためた利永の弟。妙椿は50歳まで,浄土宗西山派の善恵寺(現,岐阜県加茂郡八百津町)の塔頭(たつちゆう)持是院で僧の生活をおくるが,1460年(寛正1)兄利永の死により僧籍のまま家督をついだ。応仁の乱で西軍に属し,在京して戦った守護土岐成頼に対し,守護代として在国した妙椿は,国内の対立勢力の打倒,諸荘園の押領を行って,土岐氏をしのぐ勢力を確立した。
47:日本@名無史さん:2016/06/23(木) 06:11:39.84 ID:.net
山城国一揆 三十六人衆
48:日本@名無史さん:2016/06/23(木) 14:09:37.84 ID:.net
南山城椿庄国人 伊吹三郎、森侍者、骨皮道賢、大舘佐子
50:日本@名無史さん:2016/06/24(金) 05:42:05.20 ID:.net
蓮如
52:日本@名無史さん:2017/06/28(水) 09:42:25.10 ID:.net
やっぱし木沢長政ですよ。権謀術数ってこの人の為にある様な言葉だよ。
53:日本@名無史さん:2017/07/09(日) 18:38:48.54 ID:.net
武田信長
室町時代の武将。武田信満の次男。父の死後甲斐(かい)(山梨県)を支配した逸見有直とたたかうが,応永33年(1426)逸見支援のため甲斐に侵攻した足利持氏にくだった。のち関東で足利成氏につかえ,上総(かずさ)(千葉県)庁南,真里谷(まりやつ)に築城した。上総武田氏の祖。
54:日本@名無史さん:2017/07/09(日) 21:37:50.55 ID:.net
九条政基とか意外と好き
部下に借金返済の催促されて殺害とか現代でもありそうな事件起こしてる
55:日本@名無史さん:2017/07/14(金) 16:50:36.85 ID:.net
血気盛んな畠山義就軍団めっちゃ強かったらしい
56:日本@名無史さん:2017/07/15(土) 01:51:32.42 ID:.net
戦に破れ甕に隠れた細川高国