とても温かみのあるいい人だと思うがな
一度、蹴鞠の名手今川氏真公と
横浜F・マリノスのエースストライカー
中村俊輔の
リフティング対決を見てみたい。
今川氏真も塚原卜伝に剣術の免許皆伝を戴いているぐらいだから
運動神経は相当良い筈だ。
スポーツ大会で中村俊輔が地面に倒れ伏し
「後もう一回!」とダダを捏ねるところが見てみたい。
蹴鞠と酒と女にしか興味がないとか・・・
史実はどうか知らんけど
でも、家康もなんだかんだと言って、今川氏真の生活を援助
しているのだよな
家康も粘着質なところがあって、人質時代虐めた人は
切腹させたりしているのにも関わらずだ
氏真に対しては恨みとかないんでしょ
出来の悪くて身を持ち崩した幼馴染の兄ちゃんを世話するような感じだったんじゃないか
ライバル関係なのか友達なのか家臣なのか
懸川城開城の条件に駿河から武田信玄を追い出したら
又、氏真公を駿府の殿さまにするって
徳川家康さん約束したんだなぁ。
で今川家が滅亡しても家康さん、頭の片隅にこの事があってね
金谷のお城の城主にしたり(1年だけでしたけど)、
織田信長に氏真公を駿府の殿さまにもう一度成って頂こうかと相談したらしい。
援軍が遅れたこと。
今川軍から21人の有力国人が武田方に裏切り(様子見?)
疑心暗鬼の今川氏真勢は今川館を焼き払い
懸川への撤退を余儀なくされた。
見苦しいのは武田信玄で今川家に御見方する息子義信を
自刃に追い込み、私欲から三国同盟を破棄、駿河に乱入した。
今川義元が戦死して以来の今川家の弱みにつけ込んだ卑劣な行為。
息子義信まで殺して、氏真の妹は送り返して最低だんな。
人間の屑、武田信玄。にしても北条軍の
一日遅れが痛かった。
今川の流れの末も絶果てて 千本の桜ちりすぎにけり
と詠んだ織田信長公。
武田勝頼を滅ぼし駿府で生意気言ったものの
僅か2ヶ月後には
本能寺にて惨死。
今川義元は家康の教育は成功したのに、
どうして息子の教育は失敗したのだろうか?
家康には偉いお坊さんを家庭教師につけたのだろう?
さしずめ戦国のアレキサンダー大王とアリストテレスに匹敵するくらいの
息子にだって付けたらいいと思うのだけど
よくわからんが、
良い教育すればどんな子供も天才になれると思ってるってこと?
家康の場合は明らかに努力の人だからな
勉強好きだからな
これが信長の家みたいな放任主義だと、今川義元の家来になるか
尾張の小大名で終わったかしたのでないの
もっとも信長もそれなりにお坊さんが付いて勉強した形跡は
あるし、秀吉にしても読み書きの手ほどきは受けて、
まめに勉強をしていたようだけどな
凡庸な息子を将来サポートする優秀な家来をj一人でも多く育てたかったから。
家康はその家来候補の一人。
16歳で元服
17歳で結婚(北条氏康娘早川殿)
20歳で跡目相続を
しています。
今川義元公御自慢の
息子だったようです。
一方家康はそれで独立するだけの器量があった。
今川義元公でさえ遠江がやっと、
三河は抑えるのに苦労していました。
三河も実は安泰では無かった。織田信長は大高城の周りにぐるりと
砦を築き、食料の運搬を閉ざす作戦。
救援に駆け付けた今川義元が大高城に
食料を運びこみ、ホットしたのが運のつき。
なんと織田の若輩者に義元公始め重臣のお歴々等、
3千数百人が首を刈られたと云う。
孤立気味の大高城、鳴海城に兵糧を入れる為。
織田信長本隊との衝突は想定外(出会いがしらの事故)だった可能性がある。
2つの砦を落とし、味方の城に食料を入れた時点で
今川の当初の目的は達成。
今川義元公は田楽狭間で三曲謡を歌い舞ったと云う。
所が織田信長軍は織田家存亡の危機と捉え、
遮二無二に突っ込んだ。
今川さん、戦争は前線部隊がやる物で、本陣はただ見ているだけとの
甘い認識だったと思う。
織田信長さんは義元の首というより、今川部隊の中核部隊を狙っての戦、
要するにヒットアンドランを狙っていたんだと思う。
中枢部分を掻きまわし出来れば破壊したかった。
網を上げてみたらなんと大物の義元公始め今川の重臣が
みんな入っていたと云う事でしょう。
足利家の血統だと云う事を広く天下に知らしめるためでしょう。
下剋上の世の中と言っても有難がる住民は山といるからね。
私は戦争とは言ってもデモンストレーションを兼ねていたんだと思う。
名門今川家の良さを、最近靡いてきた三河、遠江の城持ち衆にアピールする
機会だと思っていたんだと思う。接待することで今川支持が増えると
思っていたと思う。
ゆるゆるゆるゆる輿に乗って移動しているからヒットアンドランの
織田勢に捕捉されたんだと思う。
今川公の不覚は、織田信長本隊の動きを把握していないこと。
砦を攻め落とす前に清州城を釘づけにすれば良かった。
織田信長が野戦型で神出鬼没、全天候型で激戦の尾張を
刃で手にした事ぐらい事前に把握しても良かった。
サッサと大高城に入りこんでいれば、織田勢にチャンスはなかった。
今川義元公の不始末で、嫡男の今川氏真公に苦難が襲いかかった。
親に死なれても、人質に取られても、主君に死なれても天下を取れる器量人も居るんだから。
家康が重臣で雪斎のように補佐してくれたら良かったんだろうが、さすがに無理だったな。
逆に家康が氏真を>>5の言うとおり、ブレーンだか友達だか
家臣だかしらんが、傍においているよな
普通なら、氏真は絶対に家康に殺意を抱くだろうに
逆に家康も警戒はするだろうに
昔読んだ漫画徳川家康にそれっぽい描写はあったが・・
あれは漫画。作り話。
今川氏真は死の直前まで徳川家康に保護され旧友の中。
大名にはなれなかったけど、息子たちは徳川幕府の高家に列席。
信長時代も、家康は氏真を駿河の国主に返り咲けるように
信長に持ち掛けたんだろう?
遥かに低い設定に笑った記憶が。
でも氏真って没落後に家康に連れられて信長に拝謁して蹴鞠披露されてるんだよね。
屈辱の様な気もするが、家康としては氏真の為にしたんじゃないかと。
その時の家康と信長とにどのような会話があったのか気になる。
家康も信長や秀吉に比べると、人格者なのはまちがいないし。
そういう二人だから、個人的にああいう良好な関係を築けたのかも。
家康の学問好きは、駿府時代に教育してもらったお陰だろうし、義元の姪を妻にするなど、厚遇されてたからな(手なずけるためだろうが)。
駿府の少年時代の思い出が悪いものではなかったから、駿府に隠居したんだろうしね。
客分として
織田信長軍に加わっているんだよなぁ。
今川氏真の見ている前で武田勝頼軍は
かわいそうなぐらいの一方的な敗戦。
柵を巡らしている中を真っ正面に突っ込めば
そりやぁ火縄銃の集中砲火も浴びるわな。
氏真公にその時の感想を聞いてみたいよなぁ。
ザマァ見ろと思ったのかそれともお気の毒に思ったのかどうか
それともよそ事だったかな。。
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河国にも進入し、各地に放火している。7月中旬には諏訪原城(現在の静岡県島田市)攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、松平家忠・松平康親に補佐させた。しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では宗誾(そうぎん)と号している。この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。
調べたら調べるほど、この人ものすごい数奇な運命を送って
いるのだよなww
本人もこのような生活を望んでいたのかどうか
結構気になるなww
最後の最後まで付いてきてくれた事だなぁ。
帰る雁(かり)頼むぞかくの言の葉(ことのは)を
もちて相模のこふ(古府)におとせよ
武田勝頼は親父信玄と違って「敵の意表」を突く戦術が取れなかった。
正直に前に突っ込むばかりでは最後はやられる。
北条家の御嬢さんは立派だよなぁ。今川氏真公の御嬢さん早川殿も
最後の最後まで添い遂げた。
氏真、奥さんが亡くなったらガックリ来て翌年には亡くなったらしい。77歳。
女っぽく感じるのは
姉妹に囲まれて育ったせいなのかも。
男の子は氏真一人で女の子は三人か。
姉と妹が感染症で亡くなり、看護した母上も病気が
移ったらしく一三歳で亡くなってしまいます。
父義元は一〇年後、倒れ
残った肉親は武田義信に嫁いだ氏真の妹君一人になります。
武田義信と妻(氏真の妹)、今川氏真は仲が良かっただけに
織田家に目移りした武田信玄の今川離れは
大変残念な事でした。
77歳で死去の際の葬儀には
三男坊が葬儀を執り行っています。
幼少より坊さんとして育てられていたとの事。
一月長得出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内、 検索 凡例一月長得
時代 戦国時代
別名 今川長得
主君 今川義元→今川氏真→徳川家康
氏族 今川氏
父母 父:今川義元、母:定恵院(武田信虎女)
兄弟 今川氏真、嶺松院(武田義信室)、ほか
一月長得(いちげつちょうとく)は、駿河今川氏出身の僧侶。
今川家第9代当主・今川義元の三男であると伝えられる。
生家の苗字を冠して今川長得と記されることもある[1]。
生涯[編集]長子でない為に出家を余儀なくされ、一月長得と名乗って曹洞宗の僧侶となった。
寺伝によれば天正2年(1574年)、仏照円鑑禅師(喚英長応)を招いて江戸に万昌院(現・萬昌院功運寺)を開いた[1]。
今川家の直系としては、父の死後に今川家が滅亡して、後に兄の今川氏真が徳川家康から高家として迎えられるとこれに従った。
慶長19年(1615年)に氏真が亡くなった時に弔いを行ったのは長得と伝えられており、
万昌院は観泉寺に移動するまで江戸時代の今川家にとって墓所となった[2]。
また万昌院は、今川家の本家筋にあたり、当時は極めて近い姻戚関係にあった吉良家の墓所ともなった。
果たそうとしたんだと思うね。
お約束の今川氏真公のお殿さま復帰。
家康は今川家の人質とは言っても家康の親父が
同盟軍に加わりたいと自ら言いだして人質に差し出しただからね。
今川義元公は家康を岡崎家の御曹司として優遇したんだと思う。
私は家康が金谷の城主に氏真公を持って来た事を評価するよ。
ただ氏真公、殿さまに膿んできたんだと思うな、1年半で辞退して
僧侶になっちまった。
希望があれば氏真公、江戸時代には10万国ぐらいの大名に
なったんじゃぁないのかな。でも氏真公は自由人として生きてみたかった。
血を見るのが嫌いだし、いろいろな才能があったからね。
旧領駿河国にも進入し、各地に放火している[14]。
7月中旬には諏訪原城(現在の静岡県島田市)攻撃に従った。
諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。
天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、松平家忠・松平康親に補佐させた[10]。
しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。
また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に
暇を与えた文書では宗誾(そうぎん)と号している[10]。
この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
発見されていません。若いころ秀吉は今川の領地遠江の浜松にもいたし
桶狭間の戦いにも加わっています。
織田信長と徳川家康、氏真の逸話は残っています。
逸話[編集]氏真に関しては、以下のような逸話が伝えられている。
『続武家閑談』は、天正10年(1582年)に武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と
言ったと記す。信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。
これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに本能寺の変が発生したという。
『及聞秘録』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れては長話をしたために家康が辟易し、
江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。
『故老諸談』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、
家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
家康さんと氏真さんの人柄・性格が伝わる面白いエピソードだw
結構、仲いいな、この二人。
江戸城に来て長話ってw
蹴鞠を始めた。氏真の番になると蹴った鞠を足で受け止め、
それをけっして落とさなかった。体も敏捷に動き、
鋭い掛け声が動作をきりっ、きりっと引き締めた。
(朝比奈)泰朝は驚いた。それは鍛錬した兵法者の武技に通じるものであった。
ああ、この人は生まれた家がちがった。公家の家に生まれて、
蹴鞠で一生をすごすと、古今の名人になるのだろうに・・・・・・。
泰朝はそう感じた。
参考 武田信玄 土橋治重著 成美堂出版
この格言の通り
ひとつ面白いものを発見。
17歳の弟・今川義元が兄貴の軍勢を
討ち破った家督争いを花倉の乱と言うんだが
今までは今川館、方上城(実際は石脇城。戦国時代までは高草山の麓一帯は方上と言われる事が多かった。北条早雲が最初に城主になった城)、
花倉城で戦闘が行われたと言われる事が多かった。
新たにひとつ戦闘場所が加わりました。久能山の戦いです。
今日私は4人でイチゴ狩りと久能山東照宮見学に行ったんだが
ロープウエイの乗り場付近で面白い案内板を発見。今川家の出てくる部分を
先ず紹介。
「室町時代の今川家の内紛
花倉の乱(1536)などに際しては
兵が立て籠ることがあり
次第に寺院城郭としての一面をもつに至った」。
なんでも鑑定団 愛のエメラルド
しかも、家康が氏真を援助していたなんて全然知らなかった
絶対に家康は氏真に良い印象持ってないと思ってたから・・
漫画徳川家康を子供の頃に愛読していた自分の感想です
築山殿と関係があったとかなんとか。
氏真は、女性関係がなかったとは言わんが、早川殿を愛してたし、あれはないわ。
出来の良さに驚くわ。
剣は塚原卜伝から免許皆伝の腕前、
蹴鞠は織田信長が所望するほどの腕前。
和歌は詠んだ作品が2000首も今に伝わっています。。
書も達筆だョ。繊細で鋭い。
おさるさんと書道名人大会を開けば
おさるさんに負けるはずはない。
おさるさんが地面にひれ伏し
「後もう一回!」とダダを捏ねるところが見てみたい。
なんでも鑑定団 愛のエメラルド
意外な事実に驚くわ。
なんと今川氏真公について書かれた本は只の1冊も出ていないのね。
自称小説家も学者も歴史ファンも多々いると思うのに
ただのお一人も書かれた人がいないとわ驚くと云うより
魂消たわ。
流転の人と云うより路傍の石としての扱いか。
でも私、北条早雲も今川義元も今川氏真も徳川家康公も
尻尾を掴んだ気がします。
ヤッパ駿府。特に今川のメッカ藤枝市に住んでいる事は大きい。
今日、私は東京品川にある、息子の大学の卒業式に行って来たんだが
綺麗な大学で華やかな雰囲気。春の到来を感じたわ。
タクシーの運転手さんに「今川氏真公の品川屋敷跡は分りますか」と
聞いたところ「品川だけでは分りません」とのお答えでした。
帰ってきて調べたところ、品川屋敷跡は
路傍の石と言うより、線路の下になっているみたいね。
天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真 (新潮書下ろし時代小説)?[単行本]
赤木 駿介?(著)
内容(「BOOK」データベースより)
公家や連歌師たちによって全国に張り巡らされた文化を仲立ちとする緊密な情報網。
天下を窺う戦国大名と公家ネットワークの結節点に、名家今川の嫡男・氏真はいた。
徳川家康を政権の座に導き、その武力を知力で支えた知られざるフィクサーの50年。戦国の時代観を180度覆す力作長編。
氏真主人公の本は1冊出てる。新刊で読んだことがある。
アマゾンで中古が買えるぞ。
お知らせありがとうございます。
出てたんですね。単行本。
これから先、今川氏真公は
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康並みに
注目される人物に成る気がします。
なんか今の時代のトレンドに合ってる。
明るく爽やかスポーツマン。くよくよしない。
血を見るのが嫌い。前向きじゃね。
線路の下?
信長よりも氏真のほうが交流深かっただろう?
全く天より得たもののようだ。成年になれば、如何なる大人物となるか知れない。
広忠が今生きていたら、どれほど喜んだろう」
と、涙を浮べて喜んだそうです。
義元は、竹千代の屋敷の隣に、祖母(源応尼)を住まわせた。
織田家での扱い(寺に軟禁)と比べて、思いやりに満ちていたといえるのではないか。
家康は織田家に100貫文で売られたのを見ればなおさらね。
家康があのまま織田家にいたら、
マジな話、日本人の気質すら代わっていたと思う。
信長の家の教育方針は「男は読み書きさえ出来たら、放置プレイで
かまわない」だから
信長、秀吉と続いて家康が最終的に天下を取ったから
日本人の気質が今のように定まったの対して、
信長、秀吉と続いて、劣化信長的な人格の家康が天下を統治していたかと思うと
今川家にとって利用価値が大きいから、厚遇は当然。
しかも義元は、三河に代官を置いて年貢を取り立てているから、元信処遇の経費は十分に賄ってお釣りが来る。
重臣の多くが戦死し詰んだようです。
接待上手、外交上手の人も多かったからね
桶狭間から戦わず逃げ帰って来た幹部に
氏真公が怒る。そうすると幹部が根に持つ。
薩唾峠で裏切る。
(今川家元幹部は)
武田信玄にお約束の駿河半国を貰いに行く。
「馬鹿かお前は、今川の裏切り者」と信玄に揶揄される。
岡部元信は実に立派な武将だョ。
男の中の男だョ。
織田信長と交渉し義元の首をとり戻し、
刈谷城を攻め落とすなんてなかなか出来ない。
もっと知られて欲しい人物です。
最後は高天神城の城主として
玉砕するんだが織田信長に最後まで戦った勇者だョ。
岡部元信
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=euc-jp&fr=slv1-snvaio&p=%b2%ac94%b8%b5%bf%ae
84の裏切り者とは今川一門瀬名家の三代目
瀬名氏俊です。最後は武田信玄にも追放され
口のきけない病気になり相模で放浪し
北条家にも仕官を希望したが
「今川家の裏切り者」と罵られたよし。
怒られたのは元信さんじゃァないよ。瀬名家の三代目
瀬名氏俊なの。
瀬名氏俊は今川軍の先鋒隊として出陣し、本陣の安全、見張り、設営、まわりの
監視などをやる役なの。しかるに織田軍本隊の突入に気が付くのが遅れたばかりか
本陣周りに居ながら義元を守れず逃げ帰った。
いけないのは瀬名氏俊・氏栓親子は今川氏真公に叱られたのを根に持ち葛山備中守氏元や
朝比奈信置らと共に共に薩唾峠で武田信玄に寝返ります。
「駿河を半国与える」という甘い罠に引っ掛かり今川家を裏切るのです。
勿論、信玄の甘言は実行されず反古になりました。
松井兵部宗信です。
次いで先中侍大将の瀬戸伊予氏俊が先鋒隊の要です。
先手旗本侍大将は朝比奈備中守泰能です。
後、前備侍大将藤枝伊賀守氏秋、後備侍大将葛山播磨守長、左備侍大将
岡部甲斐守長定と続きます。
松井宗信(心)が主君を守り一族郎党討ち死にするのに
今川家一門筆頭、瀬名家の3代目瀬名氏俊は逃げ帰ります。瀬名は薩唾峠でも裏切るのです。
今川義元近習・松井五郎八朗宗信
http://plaza.across.or.jp/~ai-kankyo/hatiromunenobu.htm
裏切った瀬名家3代目瀬名氏俊には悲劇が襲う。
武田信玄が甘い男だと思ったら大間違い。狡いよ。
信玄に内通した氏俊であったが、すぐに武田家を出奔してしまう。
氏俊は病気になったため(精神分裂か)、信玄から追い出され、
神奈川県でニートの様な困窮した生活を送った模様。
「嶽南史」第三巻に依ると口がきけない病気になったと云うから
お笑いだ。裏切りは病の元、いや口は災いのもとかな。
さらに、代々領していた瀬名の家も武田家に取り上げられて
仕舞ったと云う。
親子で北条家に仕官の道を願うも「今川家の裏切り者」と
嘲笑われたと言う事です。
参考 瀬名氏三代の考察 長谷川清一
進退きわまった瀬名家にお助けマンが
現れます。徳川家康です。
そうだよなぁゆっくり考えると徳川家康は
今川家に繋がる一門だもんなぁ。
徳川家康は瀬名氏(養子に入り関口氏)の娘・瀬名姫(鶴、築山殿とも言う)を正室に貰っています。
『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索 関口 親永(せきぐち ちかなが、永正15年(1518年) - 永禄5年(1562年))は、戦国時代の武将。
今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で駿河今川氏の有力家臣。諱は氏興、義広、氏広とも。
主君今川氏親から偏諱を受けて親永に改める。官位は刑部少輔。駿河持船城主。
今川義元の妹婿であり、徳川家康の正室・築山殿の父に当たる。
今川一門の☆瀬名氏貞の次男☆で、関口氏縁の養子となって関口家の家督を相続した。
駿河今川家の重臣かつ室町幕府の奉公衆でもある。
永禄3年(1560年)、義元が織田信長によって桶狭間の戦いで討たれた後も衰退する今川氏を支えた。
しかし娘婿の家康が今川氏から独立したため、義元の嫡男・氏真からその去就を疑われた結果、
永禄5年(1562年)、駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて果てた。
悪く書かれることが多いが、普通のお嬢さんだったろうに。
1代目と2代目は今川家に大きく貢献しているんだなぁ。
特に花倉の乱の最大の功労者は二代目瀬名氏貞。
一七歳の今川義元を「東海一の弓取り」に押し上げた功労者だ。
それが三代目は右往左往するんだなぁ。義元と
折り合いが悪くなり一時期出奔したりもするんだなぁ。
桶狭間の戦いの時には、御身大切、戦もせずに一目さんに逃げ帰った。
それにしても甘い男だなぁ。あのこすっからい武田信玄ですョ、
金銀財宝には目の眩む武田信玄ですョ。女子供を戦利品として
売り払う冷酷武田信玄ですョ。駿河半国などくれるはずはない。
こうゆう世間知らずの甘ったれバカ殿・瀬名家三代目瀬名氏俊に付ける薬はありません。
瀬名氏俊に戦う気力があれば北条氏康軍四五〇〇〇人の軍勢が薩唾峠に一日遅れとはいえ
接近していたから今川家は亡びずに済んだ。
北条家三代目北条氏康の今川氏真公に
対する評価は非常に高いよ。
また武田信玄の嫡男武田義信は
自刃するまで
最後の最後まで
今川氏真公にお味方しているよ。
信玄は四〇歳近くなった義信に家督を譲らず
織田信長の年七回にも及ぶプレゼント攻勢に
舞い上がって今川家にお味方する
嫡男武田義信を殺しちまった。
敵の織田信長を味方と間違えた武田信玄も悪いが
金にはみんな弱いと云う事か。
ほんわかした雰囲気の人だな
晩年の画像とはとても思えん。
吉永小百合より可愛い。
北条氏康御自慢の娘だったようです。
今川氏真 メロメロだったと思います(笑)
蹴鞠の達人
今川氏真公に
始まると
言われています。
静岡県のサッカーファンの間では
今川氏真公の評価は
上昇中です。
引用元: ・
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1394062001/