七本槍になったが、朝鮮では大勝利と大敗北を経験。関ヶ原で裏切ったが唯一加増され、大坂の陣では中立を守った
仙石秀久・・秀吉古参の家臣。織田信長からも武勇を賞された、戸次川の戦いで島津に大敗して改易。小田原戦で大名に戻った。関ヶ原以後は徳川に服従したため息子が離反。
せっかくキャラが濃いのにマイナーな脇坂や仙石の知名度をもっと上げたい
脇坂は出陣を命じられながら二度とも国元から動かず
つまり捨て駒ww
先鋒=捨て駒とか突っ込み所が多すぎて
まあネタなんだろうけど
九州征伐まで仙石は秀吉の配下の出世頭だけどね
センゴク天正記のお陰で再評価されて本当に良かった
後任軍監で真逆の方向でやらかした尾藤知宣や
小牧長久手でやっちゃった神子田正治ら他の所領没収組が結局殺されてる中
何だかんだで大名として復帰してるのはもっと評価されてもいいよな>仙石
家康がとりなしたから
二人とも5万石の大名じゃもったいないぐらいの活躍だ
家康が最も警戒し、懐柔につとめた名将。
最初の文の主語を今の大河ドラマの主人公に置き換えてNHKが宣伝中
信長直臣で寄騎なんだっけ?それとも秀吉直臣だっけ?
だが秀吉以外には寄騎に行ってないから実質直臣みたいなもんだが。
美濃攻め以降戸次川まで20年近く仕えてんだよね。
家康に天下を取られるわけだ
脇坂も世渡り上手か。
仙石がタイプの違う信長、秀吉、家康、秀忠4人の天下人の部下として働いてたが
4人共仙石のこと気に入ってた
上手というよりもう天才だな
この一つの戦で、全てを台無しにした感がある
まぁ、それでも復帰しているから、やはり実力はあるんだよなぁ…
長宗我部の嫡男が戦死して長宗我部元親は海を越えて日振島へ敗走
現職の大名の十河存保は戦死
大友の重臣・戸次も戦死
そして仙石は海を越えて領地の讃岐へ逃走
自分の判断ミスで戦死させた長宗我部信親について元親に詫びたとか慰めたとかって話もないし、
同様に戦死させて(生駒の横槍で)断絶された十河家に何のフォローもないしな。
降格された自分の身だけは、わけのわからんスタンドプレーでカバー。
上司に気に入られるのは上手いが、同僚にはしたくないな、コイツは相手を利用することしか考えてなさそう。
脇坂は丹波の赤井さんに毛皮を譲ってもらった創作話とかあるし、数少ない水軍の将だし
当時はそれなりには注目されてたんじゃないかな。ただ同期の清正と正則の存在がでかすぎちゃうだけで。
何か余程の理由があって引き上げたんではないか…と
ただヘタレで逃げられたのでは信親や十河が哀れすぎる
>>26
仙石原のエピソードですね
小田原の役は戦らしい戦が殆ど無くて、仙石と井伊直政だけが戦果を上げたんだっけな
井伊のはともかく、仙石のは戦果って程のものでもないような。
戦果というなら、散々城を落としまくった上杉・前田・真田の北国勢や徳川勢、
城を短期間で落としすぎて秀吉に、もうおまえのは戦功に数えねーよといわれた浅野勢とか一杯いるけど。
特に北国勢は大道寺を降して道案内にして、八王子の撫で斬り、北条氏邦の鉢形城すら陥落とエピソード一杯だけど。
他の大名は支城を落としたけど、仙石は小田原の虎口を落とした
しかも領地召し上げられた浪人の身分で手勢を率いて攻め落としたから
大したことないってのはないだろう
仙石の小田原城虎口陥落は感状モノの武功だね。
でなきゃ帰参なんて、普通は許されないだろう。
諜報だの城普請とか地味な仕事を地道にこなして
出世したんだよな。
便利な部下に一人いると助かるタイプだったんだろうけど
経歴として戸次川が浮いてる気がするね。
で、名犬ではく単なる猛犬。
臭いで誰が一番強いのか察知し逆らわないって意味での賢さはある
四国の時も長宗我部相手に敗退してたはず。
更に(どこまで史実か知らんが)上田城攻めの時に力攻めを主張して真田昌幸に翻弄された逸話もあるし。
だいたいあの島津家久相手の野戦なのに、秀吉の自重しろって命令も元親の警告も無視して
たいした対策も採らずに自分の力を過信して突撃して壊滅とか、将として無能としか言いようが無い。
平時や小身の部下としてなら上司にとって使いやすいけど、一軍の将としてはダメダメなイメージ。
大敗したといえば脇坂も李峻臣に大敗して一族失ってるし
その後に挽回して3千石加増されたけど、「負けたけど後に復活」という意味では二人は似ている
秀久の鬼神の奮闘で元親が助かってるから。
作者もそのへんはわかってると思うよ。
万が一の島津の侵攻に備えていち早く小倉の守備を自ら固め、海上ルートで薩摩攻撃の準備をした。
悪天候のため運悪く船が讃岐に流されてしまったが、それは結果論にすぎない。
仙石「ここは豊前の毛利勢と合流して・・」
長宗我部元親「毛利殿の加勢など要らぬ。一気に前進して叩き潰してしまえ」
十河存保「その通り。毛利と合流して戦っては、勝っても毛利に手柄をなさしめるだけでござる」
長宗我部信親「わしが先陣を相努めようぞ!島津ごとき我が一領具足が粉砕してくれるわ」
仙石「しかし関白殿下から勝手に戦うなとの御沙汰が・・」
長宗我部元親「戦には臨機の処置が必要で御座る。大坂は遠い。手柄をあげれば関白殿下は大いにお褒めくださろう」
大友義統「島津はまこと恐ろしいでござるよぉ」
長宗我部信親「ふんっ、そんな根性ゆえ、大友の家は滅びかけるのよ。臆病風に吹かれたうつけキリシタンめが!」
十河存保「仙石殿と大友殿はここにおられよ。我らの手で島津を成敗し、首を持参仕る!!]
長宗我部親子「おーーーーー!!」
仙石「あいや、待たれよ、待たれよーーー!!!」
長宗我部と十河は総崩れとなり、大友は戦わずに逃亡
仙石は命がけで長宗我部を救出するという奇跡を演出
そしてみずから進んで讃岐の領土を返上したのであった(味方を置いて讃岐へ逃亡した史実はスルーですが何か)
おもろいじゃん。
讃岐へ逃亡は後世の創作だからなくて正解。
置いてって言っても大友は最初から出てこなかったし、元親も領国まで逃げ帰った
大敗したんだから、まず本国の防御を固めてから再起を図るのは割と一般的だったと思う
九州はもちろんだが、当時の四国も豊臣政権に降伏したばかりだし、仙石が信頼できる
のは手勢しかないから、もし大友や長宗我部が島津側に着いたら小倉にとどまるのは危険だろう
似たような状況で信長も金ヶ崎から一気に岐阜まで逃げ帰ったし、結果的に逃げたけど
それほど責めるべきことでもない
あえて責任を問うなら降伏したばかりの四国勢を九州征伐に使った秀吉に責任があると思う
1586年10月 毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が豊前小倉城を落とす
1586年12月5日 島津家久が豊後鶴賀城を包囲
1586年12月12日 戸次川の戦い(長宗我部信親・十河存保・大友家重臣の戸次統常戦死)
1586年12月13日 島津家久が大友氏の本拠地・豊後府内を制圧
1586年12月24日 毛利軍が豊前香春岳城を落とす(高橋元種降伏)
1587年1月1日 豊臣秀吉が兵糧30万石の用意を石田三成・大谷吉継に命令
1587年3月1日 豊臣秀吉が勅使に見送られて、8万の大軍で大坂を出陣
改めて見ると12月5日の段階で
大友義統にやる気とカリスマの神様が降臨して1日で家中を糾合して戦闘態勢に入らん限り
府内まではどうやっても落ちるな。
仙石があの時点で戦を仕掛けず春まで待てば
島津と戦う前に鶴賀城が落城して大友逃亡
そして秀吉ブチぎれて春出陣して島津征伐が終われば
全員戦わない責任問われて減封or改易
戦って負けたら責任問われるが、待てたらもっと厳しい罰
が待ってるのだから一戦するしかない
それに、こんな状況で一番戦ってみせる必要があるは長年の部下である
仙石ではなく前年秀吉に負けて一国安堵されてる長宗我部
いやしかし大友義統が逃げたのは戸次川の敗戦があって大友独力で戦わなくてはならかった為で、なおかつ与えれた命令は鶴賀城の救援じゃなくて島津勢を追い払う事だったはず
やはり強行作戦を行う必要はなかった。
つうかあるなら長曽我部も十河も反対はしないと思うのだが…むむむ
取りあえず漫画「センゴク天正記」が戸次川の合戦編になるまで、このスレが維持されるように願うw
まだ手取川の合戦編に入ったばかりだから、10年近く先の話になるけどw
本能寺の変に決まってるでしょうが
天正記はそこまでだろうな。
太閤記は多分紀州攻めが終了して5万石貰って終りだろう。
脇坂は大坂の陣で中立
豊臣家への忠義を忘れていない所がおもしろい
中立ってか現役引いたからだろ
脇坂家の当主はちゃんと参陣してる
イヤイヤ西軍に入ったけど結局裏切りが起こった瞬間に便乗して
東軍についたんじゃ?
よく読め、”大坂の陣”の話だ
そんなスキャンダルかましときながら後世には老中まで出してるんだからたいしたもんだね。
いや別に市松さんトコがとーとか、孫六さんトコの坊ちゃんがどーとかとか、
他の七本槍(又はその跡継ぎ)が基地外ばっかとか言いたいんじゃありませんよw
他の七本槍と同一には語れないな
強いて言えば糟屋武則も帰服した播磨の土豪だから別口だが
なんか共通点とかあるか?
脇坂は仙石の後に淡路の領主になったし
マンガと話題が被るのはしょうがないが、ここでマンガの文句言うのはどうかと思う
山内一豊の時も登場せず
仙石に至っては、漫画「センゴク」を読んでなかったら、全く知らない存在だったw
ある意味、俺には貴重なスレw
秀久の二男秀範も豊臣軍に加わって討死したといわれる(行方不明、だが秀範の息子が戦後に徳川軍に処刑)
戸次川因縁の両家が再び共闘して、最後も入れ代わるのも面白いな。
奮戦と言えば仙石も島津家久を追い詰めるほど奮戦したけど、他の隊との連携が悪く
押しまくる仙石隊だけ突出した形になって挟み撃ちされて敗走した
まあ、仙石が軍監であるにもかかわらず、単に一部隊長として行動して敗戦につながったから
罰を受けても仕方ない
戦ったのは信親率いる千名ほどの部隊だが信親についたのは長曽我部勢の中でも強い忠誠心を持った一領具足
だからこそ不利になっても信親を見捨てず文字通り壊滅するまで戦った。
戦国時代の兵士達は不利になったら自分が助かる為に逃げたりするのが常道。…………………………龍造寺隆信が不利になったら部下に見捨てられたのが良い例
仙石隊が奮戦??
島津側の資料にはないな。
単純に釣り野伏せで突出してきた仙石隊を狙ったってだけ。
仙石の方からすれば
相手が引いたのを自分達が押してるとでも錯覚したんじゃない?
それが釣り野伏せの戦法とは知らずに。
それに元親隊は闘ってないというよりも
軍艦の仙石が真っ先に戦場から逃げたため
何もできなかった、が正しい。
十河と信親隊は、仙石を逃がすためか
その場にとどまって包囲されて全滅。
元親隊が備えを動かす前に既に勝負は決まったという
仙石が長宗我部と十河を生贄にして島津の武威を世間にしらしめた
アホみたいな戦。
それって島津お得意の「釣り野伏せ」にハマッただけではw
所詮は侍大将クラス
さすがにそれも極端だ。
複数の大名の上に立つような数十万石クラスが分不相応なだけで
数万石の大名としては統治もそこまで酷いわけじゃないし
まあ、こき使ったおかげで出来上がったものは非常に役に立った訳だが
とはいえ民の為にやった訳ではなく、将軍様へのゴマスリの為にやった事は間違いない!
秀忠時代はかなり優遇されてた気がする。
きっと仙石は10万石に戻れるかもとワクワクしてただろうに
相変わらずのパフォーマンスの逸話や足を引っ張った逸話はあっても
実際は何もしてないでしょ。
まあ秀吉の政権もこの程度の小粒の奴を引き立てなきゃ人材不足でどうしょうもなかった事実が
政権が短期で滅亡した一因を如実に語ってる気がしてならない。
ただのゴマスリだったら最初の失敗から復帰できねえよ。
尾藤や小川を見てみろ。
信長・秀吉・家康・秀忠に気に入られたのは単純に
漫画の見たいな真っ直ぐで単純愚直な性格だったからじゃないのかな。
戸次川の戦の敗因は寧ろ仙石・元親・十河のパーティ組ました秀吉だろ
寧ろ近くにおったクロカン部隊を軍監に持ってくるだろ・・・
大友の兵力が動かなかったのはやる気がなかっただけ
しかも豊臣に援軍を求めたのは大友なのに
援軍を求めたのは親父で当主は諦めてた
そのせいで少ない兵力で戦わざるをえなかった。
だからって、そんな少ない兵力で冬の渡河作戦を反対を押して決行するのはやはり無謀だ。
からはじまって「前にいたのでは仙石が真っ先に逃げる事ができない。
仙石勢は後陣にいたのではないだろうか。
現に島津勢に包囲され壊滅したのは長宗我部や十河の四国勢である。」
となり、「こうなると一つの結論が導き出される。
戸次川の敗戦とは戦功に焦った四国勢の暴走である!」という結論になって
四国勢の暴走に引きずられた仙石、という風に描かれるんだろうか。
いや宮下氏は一部の武将を除いて名将は名将と描くから大丈夫だと思うよ。
ただ失敗と銘打ってるから何かしらやるだろうね。
ただこの戦は↑に書いたとおり仙石のみを悪者にする事で議論終了にはできんでしょ。
武田軍の長篠での大敗を見てるとそこまで仙石をヨイショするのかな、と
作者は戦犯を描くのはあまりしないから、貶しすぎず誉めすぎず描くかな
仙石の指揮失敗+四国勢の暴走ってところか
大名(家臣)の能力落ちるからあんな大敗するんだろうな
五大老クラスならあの苦境でも長宗我部ほど被害は受けないかと
しょせん滅ぶ家なんだろ
仙石かばうわけじゃないが長宗我部オタの粘着はキモイな
なぜなら立場が違うから。
長曽我部は四国征伐で降ったばかりだったから作戦にも従わざるをえなかったし、戦わざるをえなかった。
五大老クラスの奴ならそもそも仙石の作戦に従う必要もなく例え従ったとしても無理に戦わずにすます事も出来る。
そもそも五大老クラスが仙石の指揮下にはいるわけがねぇ。
更に勢力を伸ばせた
天下の情勢が読めず、讃岐と伊予はまだまだ制圧してないのに豊臣からの土佐阿波二カ国安堵
の提案を蹴って抵抗したけど結局土佐一国だけになってしまったのが長宗我部
所詮井の中の蛙でしかない
引用元: ・脇坂安治と仙石秀久について語れ