慶長の役と比べればわかる
戦国時代ばっか上げてないで当時世界最強のモンゴル軍フルボッコした鎌倉武士はもっと評価されるべき
引用元http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1506082076
会戦して破ったと言うなら誇れるけど
元寇の時の元軍にモンゴル騎馬軍は
居なかったんだろ?
敵の総大将はフビライだし
何の自慢にもならんやん。
元寇って船でやって来てるし
モンゴルの主力部隊と戦ってると思えない。
チンギスカンやバトゥ率いるモンゴルの
主力部隊と戦ったら
義経や信長を総大将にしても
敗戦は確実だと思うが。
1231年、モンゴル、高麗侵攻開始、1259年高麗降伏、1273年三別抄を攻略し全土制圧
この50年近い血みどろの高麗攻略戦のあと、たった2回、日本を攻撃しただけの話
そもそもモンゴルと高麗との接触はもっと早い
1218年、黒契丹が満洲から高麗に乱入し江東城に籠城したが、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしたのが最初だ
もしこの時期、高麗が、中央アジアでよくあったようにモンゴルに迎合していたらどうなったか?
承久の乱で国を二分して争っていた最中の日本に、最盛期のモンゴルが来ていれば、一瞬でやられたろう
1218年なんてモンゴルが金を征服する前で、高麗に送った兵力だって僅か1万だろ。
承久の乱で19万騎を動員した鎌倉幕府に勝てるわけないじゃん。
もし1218年にモンゴル軍が日本に攻め込んでいたら瞬殺されてモンゴル帝国の歴史もそこで終わり。
1218年にいきなり迎合してる。
1231年一次はモンゴル使節をつい殺してしまって征伐、瞬く間に首都陥落されて降伏。
以下二次~六次とモンゴル軍が帰った後、反乱、不正発覚などで再々征伐で降伏の繰り返し。
王は島に逃げ込み、モンゴル軍は全土を荒らされたあげく高麗降伏の繰り返し。
王の保身のみに走りろくな抵抗もせず一方的に焦土とされた愚かで卑怯な50年。
戦争前だよね?
つい使節を殺してしまって、って一体何があったらそんなことに?
金朝の混乱で発生した契丹人難民が高麗に逃げ込んだんだけど、高麗の力では対処できなくて
1218年にモンゴル軍の協力でやっと鎮圧。
それ以来モンゴルから貢物を要求させるようになったんだけど、それが嫌になって使者殺害。
事情聴取に来た使者も弓で追い返す。
その結果、モンゴル軍が高麗に侵攻。
高麗正規軍は惨敗し、首都を包囲されてあっさり降伏。
で、モンゴル軍が占領統治のための役人だけ残して引き上げたら、その役人を皆殺し。
高麗のやり方って酷すぎるよな。
それまでモンゴル帝国の拡大を支えていた精兵が弘安の役で壊滅。
圧倒的強さを誇ったモンゴル軍は戦闘経験の無い弱兵のみになってしまった。
元寇の後、モンゴル帝国は対外戦争で勝てなくなったんだから。
弘安の役のモンゴル軍は総勢15万くらい
これが文字通り消滅したんだから影響は大きいさ
当時の人口はおおざっぱにいうと今の10分の1
15万って今なら150万くらいの軍勢ってことになるからな
勢いなくなって当然だわ
モンゴル軍の特性は騎馬スキルで大陸最強
騎馬が使えない場所だと凡人
モンゴル軍の騎馬スキルが卓越してたことは文永の役でモンゴル軍と騎馬戦やった
日本側史料にも書いてある。
でも勝ったのは日本軍。
元寇の絵とか見ればわかるけど、
元軍は騎馬戦術を使用してないし、
みんな歩兵ばかりで騎兵ではない。
蒙古襲来絵詞(絵巻)のことなら、
有名なあの一場面の左右にもっと長い絵が繋がっていて、
蒙古の方にも騎馬武者が描かれている
>蒙古襲来絵詞(絵巻)のことなら、
>有名なあの一場面の左右にもっと長い絵が繋がっていて、
>蒙古の方にも騎馬武者が描かれている
右の方ならたった一騎、赤坂から退却する部隊の指揮官らしいのが馬に
乗っている。
左の方なら祖原山の元軍本陣の図で、せいぜい2割ぐらいが騎馬だ。
チンギスカンの騎馬部隊はそんなものではない。
兵卒に至るまで全員が騎馬で、しかも全員が複数の替え馬を引いている。
そんな軍隊を舟で渡海させるのは大変、というかほぼ不可能。
しかしそれ以前に、東征軍の主力である蒙漢軍がすでに中国式の軍隊で、
歩騎混成だった。それがそのままやって来たと考えればよい。
>チンギスカンの騎馬部隊はそんなものではない。
>兵卒に至るまで全員が騎馬で、しかも全員が複数の替え馬を引いている。
>そんな軍隊を舟で渡海させるのは大変、というかほぼ不可能。
替え馬は1騎兵あたり5~6頭
敵軍から100km以上離れた母基地から出撃する。
敵軍から40~50km離れた前線基地に予備の馬4~5頭置き、そこから出撃する。
攻撃は敵軍までの往復時間を入れて1日に1回。
翌日又は数日後に馬を交換して武器の補充をして出撃する。
それの繰り返しで敵の疲労を待つ。
前線基地は敵の索敵圏外の遠方に置く。
敵は蒙古騎馬隊が次に何時攻めて来るのかわからない。
ある日ある時に突然蒙古騎馬隊が攻めて来るのである。
会戦してたら日本は負けてたよ。
日本の勝因は単純に
1.陸続きではない日本相手には
モンゴル騎馬軍団を投入できなかった
2.指揮官がフビライだった
3.日本兵がある程度の強さを持っていた
だと思う。
>1.陸続きではない日本相手にはモンゴル騎馬軍団を投入できなかった
モンゴル騎馬軍団戦法を投入できなかった
モンゴル騎馬軍団基地から50㎞以上離れた敵軍に対して
騎馬集団のみでアタックを繰り返す戦法
日本軍の夜襲のためモンゴル騎馬軍団基地を作れなかった。
日本軍の弓の射程がモンゴル騎馬軍の弓の射程の1.7倍程あった。
高句麗軍歩兵や明軍歩兵の弓の射程は、日本軍の弓の射程の半分程度であった。
海岸に石垣又は崖があると日本軍の矢にさらされて上陸できない。
長弓と短弓の優劣は単純には結論できないが
元寇に関しては長弓が優ったね
ビルマのパガン朝はモンゴルの使節団の半数を処刑。
鎌倉幕府は高麗や陳朝やパガン朝と違って、モンゴルの方から戦争仕掛けるまでは
使者を全員無事に帰国させてるんだからな。
それなのに文永の役の後で使者を処刑したら「世界の外交ルールを無視した蛮行」
とか滅茶苦茶な叩かれ方してるだろ。
当時の「世界の外交ルール」とやらをちゃんと調べたうえで叩いてるとは思えない。
それどころか、文永の役の後で処刑したのに、
戦争前からいきなり使者処刑してたようによく誤解されてる
メッチャな叩かれ方と言えば、元寇が起きたのは
鎌倉幕府が使者を処刑して怒らせたせい、
みたいなのもネットでは何年か前から見るようになったなあ…
弘安の役が、ならともかく元寇がってのは
元寇までは使者を全員無事に帰国させてる以上ありえないのに
なんでそんな話が出て来たんだろう
しかも広まってるのかなんかしらんが、年々見かけること多くなったし
普通は返書なんか送らないだろ。
武力をチラつかせた蝶状に返書返したら、武力に屈したと思われるじゃん。
だから諸外国がみんなモンゴルの外交に反発してるわけで。
実際の所、日本の外交で戦争回避する方法ってあったのかな
お断りしますって返書は朝廷は送る予定があったらしいけど、
断ってそのまま引き下がるかどうか
モンゴルは温厚だったとか平和的に使者送ったのに
日本が怒らせて戦争になった、みたいな話も何故か見るけど、
返書しないからって攻めてくるって時点で平和的じゃないし
それとも当時では使者スルーしたらガチギレ戦争待ったなし、だったのか?
うんそうだよ
使者を無視するってのは当時としては戦争待ったなしレベル
元史 210巻 外夷3
朕惟祖宗立法,凡不庭之國,先遣使招諭,來則按堵如故,否則必致征討。
朕惟うに祖宗からの法によると、来朝せぬ国は先ず使節を遣わして招諭し
来ればもとの如く安堵し、そうでなければ必ず征討することになっている。
まあ、返事しないことで引き延ばし効果はあったけどね。