甲信越地方

【越中】神保氏を語ろう【紀伊】

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【越中】神保氏を語ろう【紀伊】

1:人間七七四年:2007/09/27(木) 03:21:11 ID:ppzTSM4W.net

畠山氏の被官ながら明応の政変で都を追われた足利義稙を助けたりと活躍しながら、
戦国期には一族が諸派に分かれて分裂し、
結局は大名家として残れなかった神保氏や越中の戦国模様、その他周辺人物を語りましょう。

<関連スレ>
畠山義綱
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150263630/
■ 明応の政変 ■
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1157454306/
悲憤の武将・佐々成政
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1165854720/



引用元
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1190830871

2:人間七七四年:2007/09/27(木) 03:23:12 ID:ppzTSM4W.net

お伊勢に失地回復を祈ったが、叶わなかった神保長住カワイソス。
永禄11年(1568年)頃、甲斐武田氏や加賀一向一揆との同盟を主張して、親上杉氏の政策を維持しようとした父・長職や重臣・小島職鎮らと対立。翌年10月、越後国の上杉謙信が介入し、長住ら反上杉派は鎮圧されたとされる。天正5年(1577年)11月16日、謙信により能登国珠洲郡細谷村、神保越中守分89貫457文が飯田与三左衛門に与えられている。このことから、内紛に敗れた後、長住は能登畠山氏に身を寄せ、所領を持っていたとみられる(ただし能登畠山家中にも神保家があるため、別人の可能性もある)。しかし、能登も謙信に征服されたため、長住は京都に上って織田信長に仕えたとみられる。

天正6年(1578年)、謙信の急死を契機として信長より佐々長穐らの兵を与えられて織田軍の先鋒として飛騨国経由で越中へ侵攻し、国人の斎藤信利、小谷六右衛門、二宮長恒などを味方につけ、増山城を攻略し、越中西南部を制圧した。9月には更に斎藤利治が濃尾の兵を率いて援軍に加わり、月岡野の戦いで上杉・椎名勢に大勝した。斎藤勢ら援軍は間もなく帰国したが、津毛城に入っていた長住は北進して神保氏ゆかりの富山城を奪還し、更に東進して新庄城、松倉城に攻め入るなど活発な軍事行動を行ったが、天正9年(1581年)の佐々成政越中入国後はその指揮下に入った。

天正10年(1582年)3月、旧臣の小島職鎮、唐人親広らに富山城を急襲され、捕らえられた。間もなく織田軍の反攻で助けられたが、この事件で長住は失脚し、追放された。その後、かつて長住の傘下にあったと思われる国衆・菊池右衛門入道が織田家臣・柴田勝家に長住の身上取り成しを依頼しているが叶わず、翌年に伊勢神宮へ越中還住を祈願している。その後の長住の消息は不明である。


3:人間七七四年:2007/09/27(木) 03:27:00 ID:7uNYg4az.net

信長にいいように利用されたかわいそうな一族。
4:人間七七四年:2007/09/27(木) 03:35:16 ID:b+Bs5yDw.net

謙信も神保には結構苦しめられてるな
5:人間七七四年:2007/09/27(木) 03:36:48 ID:eN4Nzhne.net

地元民なのに詳しいことはサッパリ知らないんだが、今の富山でいうと最大でどの辺まで神保領だったん?
6:人間七七四年:2007/09/27(木) 08:14:40 ID:lQSmuBbX.net

西三分の二ぐらいと適当に言ってみる
8:人間七七四年:2007/09/28(金) 13:31:28 ID:WyQeOXDP.net

>>6
越後に近い東側は椎名氏が押さえてたんだっけ?
9:人間七七四年:2007/09/28(金) 19:38:38 ID:d7ShBbzd.net

>>8
新川郡は長尾為景が守護代だったから元々上杉領じゃない?
10:人間七七四年:2007/09/29(土) 15:03:51 ID:7N7riTiB.net

畠山家が守護で越中の神通川を挟んで右半分が椎名氏で左半分がチンポ氏が守護代として統治。
のちにチンポ氏が神通川を渡り対岸に富山城を築き東へ進出を果すと越中は大乱になり、
不利になった椎名氏が畠山家と長尾為景の援軍の救援でチンポ氏を撃破した際に長尾家が東半分の守護代になり椎名氏はその配下に組み込まれた。
91:人間七七四年:2009/02/26(木) 09:14:10 ID:aP5rJ6Hj.net

>>10 畠山卜山と長尾信濃守(為景)の間に頻繁に交わされた書状が有名ですね。
もちろん内容は神保越前守の謀反に対する卜山の信濃守への馳走要請。
15:人間七七四年:2007/10/06(土) 14:45:42 ID:SKQ0N8cv.net

会津藩の家老、神保修理は末裔?
神保 修理(じんぼ しゅり、天保5年(1834年)- 慶応4年2月22日(1868年3月15日))は、江戸時代末期(幕末期)の武士。会津藩の軍事奉行添役。神保内蔵助の長男。実弟に母方の家を継いだ北原雅長がいる。


神保 内蔵助(じんぼ くらのすけ、文化13年(1816年)- 慶応4年8月23日(1868年10月8日))は、江戸時代末期(幕末期)の武士。会津藩の家老。神保茂左衛門経周(つねちか)の嫡男。実名は神保利孝(としたか)という。妻は北原氏、子に神保修理(長輝)、北原雅長がいる。

越中守護代神保氏の庶流・神保氏張の子で保科正之に仕えた長利の子孫。会津藩の神保家は家禄1,000石の上級藩士であった。内蔵助は200石を加増され1,200石を食んだ。文久2年(1862年)閏8月、若年寄から家老に就任し、藩主・松平容保に仕えるが翌年10月に免職。元治元年(1864年)に復職した。禁門の変では新撰組と協力し、天王山に立て籠もった真木保臣ら17名を自決に追い込んだ。

戊辰戦争では会津若松城下に侵攻した新政府軍を防ぐべく六日町口の守備にあたったが防ぎきれず、甲賀町口の守備にあたっていた家老・田中玄清と共に医師の土屋一庵邸で自刃した。


16:人間七七四年:2007/10/08(月) 06:45:06 ID:meP5YQc5.net

>>15
二本松畠山氏に仕えた神保氏の末裔じゃね?
18:人間七七四年:2007/10/13(土) 11:02:08 ID:Ffj/ew6A.net

長とか神保とか、織田政権には亡命者が沢山寄って来るね。
19:人間七七四年:2007/10/13(土) 12:52:32 ID:r9thNesc.net

>>18
亡命者の寄ってこない政権(勢力)なんてオ㍗ルw
20:人間七七四年:2007/10/17(水) 02:01:18 ID:iZYkfczN.net

神保って苗字の人いたけど子孫かなぁ
21:人間七七四年:2007/10/18(木) 02:53:09 ID:KhUdDm7Q.net

東京の神田神保町の由来は旗本・神保家。
24:人間七七四年:2007/11/03(土) 21:09:59 ID:tJund0Ji.net

神保長誠って凄かったらしいな。
25:人間七十四年:2007/11/03(土) 23:19:17 ID:J/rLmL86.net

神保長誠は凄かったよ
神保 長誠(じんぼう ながのぶ、生年不詳 - 文亀元年11月18日(1501年12月28日))は、室町時代から戦国時代の武将。越中放生津城を拠点とする射水・婦負郡守護代及び紀伊分郡守護代であり、畠山政長(畠山尾州家)の家臣である。応仁元年(1467年)、政長が山名宗全・斯波義廉の後ろ盾を得て復権した義就との政争に敗れると、長誠は政長に上御霊神社での挙兵を薦め、これにより応仁の乱が勃発した。長誠は細川勝元の側近安富元綱と昵懇であった為細川軍の支援を期待したが、勝元は動かず政長軍は敗れてしまった(御霊合戦)。しかしその後長誠は各地で奮戦し、上杉定正にその武勇を激賞されるなど、目覚しい活躍ぶりを見せた。その後越中へ戻り、倉垣荘など寺社本所領を押領して勢力の拡大に努めた。


26:人間七七四年:2007/11/04(日) 15:24:04 ID:o9HDYE9X.net

へえ、凄かったらしいんだ
28:人間七七四年:2007/11/17(土) 15:02:57 ID:FC7n2tI6.net

幕府旗本神保家は氏張の子孫(氏張は実は畠山義綱の子)、二千石で下総香取郡の領地を持った
長職、長住らとはそうとう遠い親族
29:人間七七四年:2007/11/18(日) 18:31:39 ID:Y+fDyF8C.net

>>28
>氏張は実は畠山義綱の子

『寛政重修諸家譜』が出典みたいだね。
ただ生年が1528年とすると、父は義綱じゃなくて義続の方が妥当な気もする。

32:人間七七四年:2007/11/19(月) 15:46:32 ID:5fvLmJme.net

>>29
>『寛政重修諸家譜』
その通りです

>ただ生年が1528年とすると、父は義綱じゃなくて義続の方が妥当な気もする
手持ちの事典では氏張、義綱、義続とも生年不詳(氏張、義綱は没年も不詳)ですが
仮に>生年が1528年とすると
…1491年生まれ(没1545年)の義総がしっくり行くかもしれませんね

どうなんでしょうかね

30:人間七七四年:2007/11/18(日) 18:49:29 ID:LIom4bzE.net

富山といえば椎名氏も滅亡してるしな。
富山最大の英雄は正力松太郎、角川春樹、藤子不二雄だ。
33:人間七七四年:2007/12/04(火) 15:01:48 ID:2SLNVvLw.net

慶宗は義尹に供奉して周防まで行っているんだね
34:人間七七四年:2007/12/19(水) 15:37:11 ID:CsX6lEel.net

下総香取郡1500石が氏張の子孫だね。
大和高市郡6000石の神保は紀州系かな?
35:人間七七四年:2008/01/07(月) 18:33:30 ID:Ltka20VY.net

神保遠江守はそだね。
37:人間七七四年:2008/01/31(木) 02:04:24 ID:N6jN6PEg.net

ホンマかいな?

>神保氏張は9代能登・越中守護職畠山義綱の次男で、畠山家被官の神保氏純の
>養子と言う説もある。

38:人間七七四年:2008/01/31(木) 02:30:15 ID:oH5Zwxko.net

義綱時代だと、どの程度の従属関係にあったんだろ?
本当に養子を貰ってるなら、結構親密だったのかな??
39:人間七七四年:2008/02/13(水) 16:31:19 ID:7/VnFOK3.net

神保氏の出自に詳しい方、解説ヨロ。
45:人間七七四年:2008/04/02(水) 16:31:13 ID:i3wRRdUS.net

神保は畠山の譜代と言われるが 明徳年間以前は事績不明なんだよね。
47:人間七七四年:2008/04/30(水) 16:14:41 ID:tocvD0PN.net

神保は何時の間にか畠山から自立した感じだね。
49:人間七七四年:2008/05/15(木) 22:31:45 ID:OsKqpzd7.net

神保長職はイケメン
50:人間七七四年:2008/05/26(月) 08:39:11 ID:w9ga6aHd.net

>>49
肖像画見たこと無いw
57:人間七七四年:2008/08/10(日) 06:05:07 ID:nP7CRgRX.net

神保氏とライバル関係だった椎名氏について教えてください。
61:人間七七四年:2008/09/09(火) 15:12:15 ID:8QfAcxku.net

>>57
遊佐が砺波郡 神保が射水郡婦負郡 椎名が新川郡の守護代。
78:人間七七四年:2008/12/01(月) 15:57:11 ID:c+eVEQD2.net

伊達政宗に味方撃ちで皆殺しにされたんだよね。ひでぇ話だ。
いくらなんでも、文字通り全滅なんてなるはずない。
悪意を感じる。
神保 相茂(じんぼう すけしげ、天正10年(1582年) - 慶長20年5月7日(1615年6月3日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。天正10年(1582年)、神保春茂の子として誕生。 越中国神保氏とは同族にあたり、春茂の系統は神保長誠から分かれたもので、代々紀伊国有田郡石垣鳥屋城に居住し畠山氏尾州家の家臣を務めていた。畠山氏没落後、父・春茂は豊臣秀長、豊臣秀吉に仕え、大和国に6,000石を与えられた。

父の跡を継いだ相茂は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際して東軍に味方し、上杉景勝討伐に従軍して1,000石の加増を得る。

慶長20年(1615年)、大坂の陣では300の小勢ながら水野勝成隊に属して勇敢に戦うが、5月7日船場口にて明石全登隊が越前勢左翼を攻め崩したために水野勝成隊は混乱に陥り、激戦の最中神保隊馬上32騎、雑兵293人が全滅し、相茂も討死した。江戸幕府の公式記録『徳川実紀』(『台徳院殿御実紀』)は、神保主従は5月7日に明石隊との激戦の最中に全滅したとし、「此の戦に大和組の神保長三郎は、主従共に三十六騎馬同枕に討ち死にす」と記している。


79:人間七七四年:2008/12/12(金) 14:50:47 ID:d3UDjlZD.net

元禄期に猪苗代城代やった神保茂左衛門ってのがいるね。
80:人間七七四年:2008/12/24(水) 15:08:01 ID:dn0kSmmf.net

各地にいて面白いですね。
81:人間七七四年:2008/12/24(水) 22:50:10 ID:jZ8djwPr.net

結局、畠山氏ある所に神保氏ありってことか。
82:人間七七四年:2008/12/25(木) 14:26:26 ID:8DcUcaAy.net

上杉あるところに長尾あり、と同じだよね


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