小田氏治ファンクラブ☆天庵様【常陸の不死鳥】1
関東八屋形の名族・小田家15代当主で小田城城主。出家し天庵と号す
「越後の龍」上杉謙信に山王堂で真正面から野戦を挑み、長時間に亘り互角に戦い善戦した猛将である!
34年に及ぶ小田城争奪戦で見せた燃え盛る闘志・郷里への一途な愛・不撓不屈の精神から「常陸の不死鳥」と謳われた
「尾張の大虚け」織田信長とは同世代で同じオダ姓であることから信長最大の宿敵とされ、家臣領民からの人望と長生き競争で圧勝した
また家臣は菅谷政貞を筆頭に「覚えの者(勇猛な武将)が多く」、霞ヶ浦・川・沼に囲まれた「坂東一の名城」土浦城を擁し、
上杉謙信や佐竹義重・太田資正(三楽)等と幾多の激闘を繰り広げ生還したフェニックスである!
小田氏治・小田勢の戦歴(前半)
弘治元年(1555年)弐・攻 小田氏治 △・・【結城城の戦い】・・△ 結城政勝
弘治02年(1556年)壱・野 小田氏治 ●・【海老ケ島の戦い】・○ 結城政勝・遠山綱景(北条氏康家臣)・太田資正(〃)
弘治02年(1556年)壱・籠 小田氏治 ●・・【小田城の戦い】・・○ 結城政勝・遠山綱景・太田資正
弘治02年(1556年)壱・攻 菅谷政貞 ○・・【小田城の戦い】・・● 結城政勝
永禄元年(1558年)弐・野 豊田治親 ○・・【長峰原の戦い】・・● 多賀谷政経
永禄02年(1559年)弐・攻 小田氏治 ●・・【結城城の戦い】・・○ 結城晴朝・小山高朝・真壁久幹
永禄02年(1559年)弐・籠 平塚長信 ●【海老ケ島城の戦い】○ 多賀谷政経
永禄02年(1559年)弐・野 小田氏治 △・・【唐ケ崎の戦い】・・△ 大掾貞国・谷田部通胤(江戸忠通家臣)
永禄04年(1561年)弐・攻 小田氏治 ○・・【結城城の戦い】・・● 結城晴朝
永禄04年(1561年)弐・攻 宍戸義綱 ○【海老ケ島城の戦い】● 佐野出羽守(多賀谷政経家臣)
永禄04年(1561年)弐・野 宍戸義綱 ●・・・【古沢の戦い】・・・○ 多賀谷政経
永禄06年(1563年)弐・野 石毛政重 ○【五家千本木の戦い】● 多賀谷政経
永禄06年(1563年)弐・野 小田氏治 ○・・・【三村の戦い】・・・● 大掾貞国
永禄07年(1564年)壱・野 小田氏治 ●・・【山王堂の戦い】・・○ 上杉輝虎
永禄07年(1564年)壱・籠 信太治房 ●・・【小田城の戦い】・・○ 上杉輝虎・佐竹義重・宇都宮広綱
永禄08年(1565年)弐・攻 信太治房 ○・・【小田城の戦い】・・● 佐竹義廉(佐竹一門)
永禄09年(1566年)壱・籠 小田氏治 ●・・【小田城の戦い】・・○ 上杉輝虎
永禄11年(1568年)弐・籠 蝦原俊元 ●【海老ケ島城の戦い】○ 宍戸義綱
永禄12年(1569年)弐・野 小田氏治 ○・・・【若森の戦い】・・・● 佐竹義重
永禄12年(1569年)壱・野 小田氏治 ●・・【手這坂の戦い】・・○ 太田資正・梶原政景・真壁久幹
永禄13年(1570年)弐・籠 岡見頼忠 ●・【谷田部城の戦い】・○ 多賀谷政経
元亀元年(1570年)弐・野 小田氏治 ○・・【平塚原の戦い】・・● 結城晴朝・多賀谷政経
>>2に続く
引用元http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1400405103
天正元年(1573年)弐・籠 平塚周防 △・・【大島城の戦い】・・△ 多賀谷政経
天正元年(1573年)弐・攻 小田氏治 ○・・【三村城の戦い】・・● 大掾常春(大掾貞国弟)
天正元年(1573年)弐・野 小田氏治 ○・・【鳥出台の戦い】・・● 梶原政景・真壁久幹
天正元年(1573年)弐・野 菅谷政貞 △・【田土部川の戦い】・△ 太田資正・梶原政景・真壁久幹
天正元年(1573年)弐・野 豊田治親 ○・・【小貝川の戦い】・・● 多賀谷政経
天正元年(1573年)壱・籠 菅谷源左 ●・・【宍倉城の戦い】・・○ 佐竹義重
天正元年(1573年)弐・攻 菅谷政貞 ●・・【小田城の戦い】・・○ 額田義房(佐竹義重家臣)
天正元年(1573年)弐・籠 由良憲綱 ●・・【藤沢城の戦い】・・○ 額田義房
天正02年(1574年)弐・籠 小田氏治 ●・・【土浦城の戦い】・・○ 車斯忠(佐竹義重家臣)
天正02年(1574年)弐・攻 菅谷範政 ○・・【土浦城の戦い】・・● 佐竹勢
天正05年(1577年)弐・野 菅谷政貞 ○・・・【蛇沼の戦い】・・・● 多賀谷重経
天正05年(1577年)弐・攻 小田氏治 ○・【手子生城の戦い】・● 佐竹勢
天正06年(1578年)弐・籠 菅谷範政 ●・【木田余城の戦い】・○ 梶原政景
天正06年(1578年)弐・籠 豊田治親 ●・・【豊田城の戦い】・・○ 白井全洞(多賀谷重経家臣)
天正06年(1578年)弐・籠 石毛正家 ●・・【石毛城の戦い】・・○ 白井全洞
天正08年(1580年)弐・攻 岡見頼忠 ○・【谷田部城の戦い】・●多賀谷経伯(多賀谷政経弟)
天正11年(1583年)弐・籠 小田氏治 ●・・【土浦城の戦い】・・○ 佐竹勢
天正12年(1584年)弐・海 土岐治綱 △・・【霞ケ浦の海戦】・・△ 島崎義幹
天正13年(1585年)弐・攻 小田氏治 ○・・【藤沢城の戦い】・・● 佐竹勢
天正13年(1585年)弐・攻 小田氏治 △・・【小田城の戦い】・・△ 太田資正・梶原政景
天正14年(1586年)弐・籠 岡見頼忠 ●・【谷田部城の戦い】・○ 多賀谷重経
天正14年(1586年)弐・籠 只越全久 ●・・【小張城の戦い】・・○ 多賀谷重経
天正15年(1587年)壱・籠 岡見宗治 ●・・【足高城の戦い】・・○ 多賀谷重経
天正16年(1588年)壱・籠 岡見五郎 ?・【東林寺城の戦い】・? 野口豊前(多賀谷重経家臣)
天正16年(1588年)壱・籠 岡見治広 △・・【牛久城の戦い】・・△ 多賀谷重経
天正16年(1588年)弐・野 小田氏治 ●・・【手子生の戦い】・・○ 佐竹義重
天正16年(1588年)弐・籠 小田氏治 △・・【藤沢城の戦い】・・△ 真壁氏幹
天正17年(1589年)弐・攻 岡見治広 △・【谷田部城の戦い】・△ 多賀谷重経
天正18年(1590年)壱・野 小田氏治 △・・【樋之口の戦い】・・△ 梶原政景・真壁氏幹
注)壱:一次史料の裏付け有。弐:二次史料の裏付け有
注)野:野戦、攻:小田勢による城攻め、籠:同籠城戦、海:海戦
『北条氏康書状(正木弥五郎宛て)』『佐久山資信書状(東京大学白川文書)』
『結城政勝書状(東京大学白川文書)』『佐竹義重書状写(家蔵文書)』
『菅谷全久書状写(水府志料)』『吉備雑書抄書(安得虎子)』『佐竹義重感状(榎戸文書)』
『上杉輝虎書状(蕪木文書)』『真壁氏幹感状写(安得虎子十一)』他
一見すると健闘してるように見えるが、よく見ると氏治指揮の勝ち戦は全て軍記ソースという・・・
一次史料の裏付けの有る勝ち戦は一つも無いけどね
負け戦はあるけど
この人まちがったネット情報で過小評価されがちだけど
史料読んでみると結構強いんだよな
軍記に脚色加わることあるけどいくら軍記でも全くデタラメは書けない
下手したら一族・子孫の逆鱗に触れて首はねられる
初耳なんだけど戦歴悪くないな
一次史料の裏付けがないって事だろ
どう見ても名将とよべるような戦歴じゃないんだし
キャラ立ちが消えてつまらん凡将に成り下がるだけだぞ
上杉謙信や北条氏康に負けたからといって凡将呼ばわりはどうかと
>>1-2を見れば分かるけど謙信以外にも負けてるし、氏康とは戦ってないんだけど?
小田氏治に攻められ苦戦してた結城政勝に北条氏康が援軍送ってる
1556年の氏治の敗戦・小田城陥落は氏康によるものといっていい
その後氏治は氏康と関係改善し、氏康の援助を受けられなくなった政勝は小田城から敗走
複数回の小田城陥落に関しては北条氏康・上杉謙信の両者の攻撃が原因と考えていい
いやいや氏康自身が指揮してないのに氏康によるものとはいえんだろ
結城政勝は1555年小田原城を訪れ北条氏康に臣従の意志を表明してる
ゆえに結城氏は1555年~1560年は北条氏の家臣
よって1556年の小田氏の合戦相手は北条勢ということになる
結城氏単独ではとても小田氏に勝てんよ
話がかみ合ってないぞ
おれは氏康自身が指揮してるかどうかを問題にしている
北条勢かどうかは問題ではない
不死鳥と云われるだけの事はある
菅谷氏は信太氏の親族だったな
両者小田氏の筆頭家老、晴信にとっての板垣甘利の両識と同じ
菅谷氏は土浦城で信太氏は木田余城の城主
隣同士だから領土争いでもあったかな
1556年の敗戦・小田城落城は敵が北条氏康・結城政勝連合
1564年の敗戦・小田城落城は敵が上杉謙信・佐竹義重・宇都宮広綱
1566年の敗戦・小田城落城は敵が上杉謙信
1569年の敗戦・小田城落城は敵が太田資正・真壁久幹
1556年・1564年・ 1566年の合戦は敵が強すぎる
これらの断続的な侵略喰らって弱体化したんだろう
1566年に謙信が小田勢蹴散らし小田領民を人身売買までして大打撃
敵が悪すぎた
>>1によると1556年の小田城奪回は菅谷政貞の指揮、1565年は信太治房の指揮だけどね
1566年の落城は、その後謙信に降伏して返還されただけ
1569年以後は諸説あるものの、ずっと奪われたまま
天庵は 1566年に輝虎にボコボコにされた後、
結城晴朝を通じて輝虎に降伏した
そん時の降伏の条件が「小田城の修築しないこと」
つまり輝虎に破壊された小田城を天庵は修築できず、
1569年太田三楽と手這坂で合戦してる隙に真壁久幹に裸同然の小田城を楽々落とされた
天庵は二度の輝虎侵攻で深手を負い以後挽回できなくなった
知らんかったわ
ニコニコ大百科はデタラメ書いてんだな
あれも事実だろ
強い大名ならいざ知らず人気の理由がアレだから弱いのを誇張して書いているだけだろ
ニコニコ大百科の記述はソースゼロ
ゆえに読む価値ゼロ
その内信長追い抜くんじゃね?
氏康も決戦をした事はない
第四次川中島では図らずも激突するハメになったが、後にも先にもあれだけであろう
やっぱり小田さん勇気はんぱないわ。
ウサギが虎に立ち向かうようなもんだからな。
西から上杉が五千以上の兵で下妻付近に布陣していて、東の土浦近辺にも五千以上の佐竹勢がいる状態で野戦を挑むとか知能に障害があるレベル。
前山とかを拡張して詰の城として備えることもせず、あちこち喧嘩売ってるのに平気で小田城みたいな平城に居続けるのを見てもやっぱり馬鹿と分かる。
これで撃退できればまだ見返すところもあるが、結局耐えられなくて逃げ出す始末。
輝虎が帰ったあとヌケサクの佐竹義廉を追い落として小田城復帰してみても、もう一度同じこと繰り返して再度上杉に攻められて、結城に泣きついて降参してるやろ。
領民大事にしてるというが、結局開城した時に上杉勢に人取りされて売り払われとんねん。城中に逃げ込んだ領民に謝罪せえや!
そんな間抜けな経緯から太田資正と梶原政景を目付けにされたのに、ある日ブチ切れて太田を攻めてみれば逆にまた小田城を取られるやろ?
筑波山越えて布陣したら逆に筑波山中に取り込められた挙句、即効南下した真壁にモヌケの城占領されるってどういうことやねん。頭おかしいんか。
その後謙信に泣きついて「一緒に佐竹攻めてくださーい」って阿呆か!直後に越相同盟破綻して、この佐竹攻め有耶無耶かーい。
そして結局にっちもさっちも行かず最終的には孫を佐竹の人質に出す、小田原の秀吉の元に出仕しない、小田家滅亡、擁護出来へんがな。
少なくとも小田城奪還戦に限れば勝ち越しているような
小競り合いだと結構勝ってるんだが
重要な戦いで勝ちきれないパターン多いから
そもそも普通は何度も居城を奪われないし
北方:真壁氏
北東:佐竹氏
東方:大掾氏
南東:土岐氏
南方:千葉氏
南西:北条氏
西方:上杉氏・多賀谷氏
北西:結城氏
膝元の猫といっしょにまったりとしている様子にニヤッとしてしまった。
晩年の天庵といえば結城秀康に引き取られたけど、あそこ先代の晴朝ばかりか
仇敵梶原政景と太田資武も居たよな。無事に済んだのだろうか?
なんか面白い逸話とか残ってないのかな?
信玄の躑躅ヶ崎館、謙信の御舘なども守りの強くない平城
小田城は前を桜川、後ろを山に挟まれ悪くない立地だった
桜川を上流へ行けば北条城、大島城、海老ヶ島城、真壁城
下流へ行けば藤沢城、土浦城から霞ヶ浦、太平洋へ通じた
北条や上杉、佐竹に攻め落とされて守りの弱い城と誤解されてるのが残念
実際は相手が強すぎたに過ぎない
家臣や領民にそんなに慕われる何かを持っていたのか?
武家とはそういうもの
佐竹だって3度太田城を失っているし、義舜は14年も流浪した後に国人らの支援で復帰した
宇都宮、結城、那須なども城を奪われて滅亡寸前まで追いやられたが復帰を果たした
名家のネームバリューは強い
何せ幕末に新田義貞の子孫が担がれて旗揚げしたくらいだからな
何百年経っても家名には価値があるから周りが放っておかない

