「治部が死んでは生き甲斐が無くなる」と石田三成との友誼を重んじた、
佐竹義宣を語りましょう。
<関連スレ>
常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
引用元http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1204974533
友としては最高の漢だと思うがどうだろう?
シフトさせて体制を確立させているけど、この話を扱った「雪の峠」は結構この板の住人では
呼んだ方も多いのではと思う
「雪の峠」は、今は入手困難なんだよね。
マンガ「雪の峠」読んだよ。面白かった。
義宣よりも、渋江内膳や梶原政景が主役の内容だったね。
それって結城秀康じゃなかった?
そのときのお礼に三成が秀康にあげた脇差が正宗で
「石田正宗」と言って越前家の家宝になったとか
勘違いだった。確かにら結城秀康であってる(家康の指名だった模様)。
義宣が三成を護衛したのは、武断派襲撃後から隠居までの間で、
小西や宇喜多と共同してとのことらしい。
やっぱり格好良い!
義宣って野戦で指揮取る機会
大阪冬と摺上原、小田原時の忍の他にあったっけ??
家督もらってから惣無事令までの期間が短くて
野戦指揮の機会はほとんどなかったのでは?
そもそも初陣っていつだ?
本当に同じDNAが含まれてるのか?
天正14年初頭に家督を継ぎ4月には総大将として軍勢を率い下野を転戦した
それ以後、常陸南部や下野・陸奥に出陣し北条方や伊達方の軍勢と戦いを続け
小田原の陣・奥州仕置でも佐竹洞中を率いて出兵した
その後、浅野に従い常陸の反抗勢力を討伐した
家督継いだのって天正14年だっけ?
俺の記憶では天正17だったと思うんだが…
といっても文献などで確認したわけではないので17が事実かどうかはわからないが
天正14年4月に初めて義宣が軍勢を率いて宇都宮氏へ後詰めした事が宇都宮国綱の書状に残されている(宇都宮家蔵文書)
また、この一連の戦いで義宣が感状を発給している(秋田採集文書)
7月には大山氏と起請文を取り交わした
ただ、天正14~15年の書状は義重との連署のものが多く、義重が後見していた事が伺える
天正16年以降は義宣のみの文書が大半を占めるようになっている事から
天正14に家督を譲り16年までには完全に義宣へ委ねられたと見られている
佐竹家譜では富岡与一左衛門訴帖に義宣が17才で家督を継ぐとあることから
生年から見て天正14年であるとしている
なるほど、ありがとう
確かに天正14年ごろは近場でも上方でも情勢がめまぐるしく変わってたから
いきなり義宣を全面的に前に立てるのは難しかったのかもね。
末弟の彦次郎は年が40以上離れてるからこれはこれで弟のような気がしなかったかもしれない
佐竹関連本では子供のできなかった義宣が我が子のように可愛がった云々と書いてあるのをよく見る
実際のところはどうか知らんけど一時世継ぎに据えたのは事実のようだ
当時の両者の力量を端的に示している。
佐竹+寄騎大名の石高は、宇喜多や伊達を凌いでいる事実がポイント。
相馬と佐竹って血縁関係があった?
地理的に近く懇意だから寄騎になっただけ?
また、相馬氏の改易が決まりかけたころ、義宣が「うちらの領知のうち一万石わけるけど来る?」と
呼びかけている。ちなみにこの両家は江戸時代も互いに養子を迎えるなどしており、結構親密だよ。
しかも周りを結城伊達北畠に囲まれて
大乱ではそういういきさつで種宗側について以来、延々と揉めていた。
ちなみにそのあと何十年立ち、政宗と和解し、その後はだいぶ伊達派になっていた。
それから数年たった頃、伊達家側に寄り出した田村家と揉めて、また伊達家と戦う羽目に。
その後、政宗の人材スカウト戦法で骨抜きにされ、滅ぼされる寸前に。
でも小田原参陣で生きながらえたが、徳川の世で佐竹派とみなされ改易。
というのも16代の娘が佐竹貞隆の妻なので、佐竹派扱いになっていた為。
その後大名復帰。新井白石の本で、政宗の口ぞえで大名復帰ということになっているが、
これは謎。むしろ政宗は相馬領はほしいだろうしな。そこまで口ぞえしないと思う。
とはいえその前年に上杉家に共同で攻めたりしているからありうるかも知れん。謎。
姓も名も貰えなかった
国持ちは山内と佐竹?
山内二代目忠義は秀忠からの偏諱と松平姓を賜ったはず…。山内三代目の忠豊の「忠」は秀忠からの偏諱かどうかは判りません…。
親子揃って義理堅いなぁ。
秀吉への贈り物を政宗に託したが改易…
佐竹を裏切って伊達に鞍替えした大名家は秀吉に潰されてるな…
石川昭光とかも。
与力しかも従兄弟の宇都宮国綱が改易…。
佐竹氏も連座で危なかったとか…。
この危機を三成のお陰で助かった…って事だが、具体的に三成はどの様な働きをしたのか?
又、宇都宮改易の真実とは?
浅野からの養子を断わったからとか、検地(石高)に不正があったとか…。
本当だろうか?
惣無事令違反。
国綱と近臣らは浅野養子を認める方向で動いていたらしいが、芳賀高武がこれに反対。
勝手に養子の件は無理と三成に報告。養子肯定派のひとり北条何某を四条河原で斬首。
そのうえ下野に戻って肯定派の今泉高光の上三川城を攻めた。思いっきり私闘。
そんで大名の国綱が責任を取らされて改易。
石高は多分全く関係ないし、養子の件も間接的な原因であって直接の理由ではない。
おそらくこういう非常に恥ずかしいことから改易されたため、
それを糊塗するために石高とか養子とかが理由だと後付けされたのだと思う。
サンクス!
しかし惣無事令は九州や関東奥羽の地域限定…。
関東奥羽惣無事令は1587年発令で、1590年の小田原征伐そして奥羽仕置での天下統一後で法令自体の目的は達せられたはず。
宇都宮改易は1597年、発令から10年後…。
それでも惣無事令は廃止されず生きてたのか?
秀吉が出した切支丹禁令が徳川幕府成立後再び持ち出されようなものか?
それにしても芳賀高武、よく切腹や斬首させられなかったな。不思議。
それは兎も角、この「宇都宮氏改易事件は芳賀高武の私闘のせいだった説」は実証できない。
つまりオイラの推測に過ぎないのだ。というのもそれに関する史料がなく、
よく探せば見つかるのかもしれないけど(あれば実証されてるので多分無いんだろう)、
オイラもめんどくさいのでそこまではしたくないからなのだ。
じゃあ何でそう思ったのか、ということを説明する。
まず宇都宮氏改易の原因とされるものには概ね次のようなものがある。
1.初めの検地で18万石だったにも関わらず、あとの太閤検地で39万石も出てきたので、
石高を詐称していると指摘されたため。
2.浅野長重が養子に入ることを断ったため。
3.(2)をしたために長重の不興を買い、(1)であると讒言されたため。
まず(1)だが、これは有り得ない。これは他のスレでもオイラが何度も言っていることだけど、
初めの検地は差出検地なので国人や家臣からの申告から導き出された数字であり、
過小に申告されるのは当り前だからだ。秀吉が検地をしたのは関東が初めてじゃない。
長浜時代からきちんと官僚たちが実測した検地を行っていて、実測の太閤検地を行えば
必ず差出のときより大きな数字が出てくるのは分かり過ぎるほど分かりきっていた事なのだ。
秀吉は以前高野山金剛峯寺を検地したことがあって、その時には差出から実測の検地で
17倍もの違いが出てきた。しかし金剛峯寺は刀狩を厳命されただけだった。
従って、たかだか18万→39万で2.2倍ほどの宇都宮が、それが原因で改易されるならば、
「公儀豊臣」が成り立たず、(3)も含めるならば、全くの私怨で裁定されたことになる。
もちろんそういうことがあったかもしれないことを否定するわけじゃないが、
オイラとしてはそう考えることはあまりにも馬鹿馬鹿しいので(だって私怨で公儀が
捻じ曲げられることがあるというなら、もはや法令なんて必要ないし、何でもありじゃないか)、
この説は消さざるを得ないのだ。当然(3)も無くなる。
また太閤検地は文禄四年(1595)であり、宇都宮改易は慶長二年(1597)。
なんで石高詐称が発覚してから改易まで二年も要するのかも説明できない。
(2)は所謂謀略説で、その後浅野長重は(3)を行ったとされる。
(3)は上記のことから無いので(2)だけ見る。
実は宇都宮国綱は長重が養子に入ることを一度了承している。
しかしこのことは宇都宮の家宰にあたる芳賀高武を通さず、国綱が北条何某と今泉高光の
間で決めたことであり、その為に高武は激怒して、養子の件を破棄することを石田三成に
告げて、北条を京都の四条河原で斬首、次いで国許に逃げた今泉を追って下野に帰り、
慶長二年(1597)五月頃に今泉の居城上三川城を攻め高光を自刃させた。
以上のことはぶっちゃけ史料を見たわけじゃなく、ネット上から拾った情報だが、
別に否定する根拠も無いので実際にあったことなんだろう。多分上三川町市あたりでも
見ればそれなりの史料付きで載っていることだと思われる。
さてこれが事実だとすると、仮に(2)が有り得たとしても、それ以前の問題となってしまう。
結果的には良かったのかもしれないな
関東や近畿の大大名なんて、殆ど徳川三代で改易の憂目に遭ってるし
東軍について常陸を安堵されても結局潰されたと思う
明治の世で侯爵にまで出世する佐竹家はなかっただろう
野心をもって戦ってから減封&遠国飛ばしされれば良かったものを
戦わずして飛ばされた情けなさだから歴史的にはマイナーキャラクターになっちまった。
俺は佐竹好きなんで残念で仕方がない。
PHPの佐竹義宣なんて「退却中の内府に佐竹得意の追い討ちをかけてやる!」なんてカッコいい事を書いてあったから思わず買っちまったしw
関ヶ原から少し経った辺りで、「島津も交渉長引いてるがやはり交渉は粘りだな」
と常陸一国安堵になりそうだと楽観してる義宣がなかなかお坊ちゃんで微笑ましいが。
結果論だよな
あからさまに敵対して負けたら滅亡って普通は考えるじゃん?
家康と上杉にハシゴ外されたからお手上げだろ
清盛、尊氏、秀吉ら西国政権の時は隆盛した
頼朝、家康ら東国政権の時は駆逐された
なにも難しい事はない
それだけの話しだ
