【歴史】四百年前の大地震で一夜で埋まった「帰雲城」は庄川左岸に 白川村、歴史愛好家らが研究結果発表へ[05/19]
「同村保木脇の庄川の左岸」だったとする研究結果を、
歴史愛好家でつくる白川郷埋没帰雲城調査会がまとめ、十九日、発表する。
村史によると、帰雲城は一四六四(寛正五)年ごろ、白川郷一帯を治めた内ケ島為氏(うちがしまためうじ)が築城。
四代目城主・氏理の時代に起きた一五八六(天正十三)年の大地震で山崩れとともに全てが埋まったとされる。
城の位置は不明で、これまで庄川の東側である右岸説や左岸説などが唱えられてきた。
調査会によると、飛騨の地役人が一七四六(延享三)年に書いたとされる地誌「飛騨国中案内」に、
城のあった場所として「往昔は帰雲、其後(そのご)は帰山なり。に今至て其所を帰雲川原と言ならし候」との記述があった。
調査会ではこれまでに「氏理の居城のあった所を帰雲川原と言うようになった」と解釈してきた。
新たに今回、白川村役場が所蔵し、
地誌より十年以上前に描かれた同村の古地図「享保年度山林絵図面」を調べたところ、
保木脇周辺の庄川の左岸部分に「帰雲川原」と記されていたという。
調査会事務局長の野田秀佳さん(56)は「長年追い求めていた場所が分かり、感無量。伝説にも一歩近づけた」と喜ぶ。
調査会は一九八六年に発足して以降、文献による研究や村内の調査などを重ねてきた。
今後も現地調査などをして、幻の城の存在を裏付ける手がかりを探す。
画像:「帰雲川原」の地名が書かれた古地図
中日新聞(CHUNICHI Web)
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20180519/CK2018051902000051.html
引用元http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1526737132
「お前が発掘費用を全て支払うのなら、考えてみてもいい。」って、
白川村の偉い人が言ってたよ。
貴方の家の下に遺跡があるかも知れません、掘らせてください
と言われて家壊してまで調べるのか?
館だろうな
ぶっちゃけ荘川断層が再び動いたら、あの辺の集落はそうなるんでしょ?
かなりビックリしたわ
あんな山奥のどこから湧いて出てきたのか未だに不思議だわ
両県から挟み撃ちにして一網打尽にできるチャンスなのにな。
地震で一族の全員が生き埋めで全滅とか、どんなミステリー小説なのかと
発掘しても大したものは出てこないような
震災直後には土砂崩れで庄川の水が堰き止められ、一帯は天然のダム湖になっていたという。
ということは、城の建材、その他諸々の有機物が泥の中に酸素を遮断された状態で埋まった可能性がある。
そうなると、山田寺の回廊のように、腐らずに現存してるかも知れない。
つまり、戦国時代の建材、武具、日常品がそっくりそのまま出土する可能性があるわけだ。
まあ、いわゆる黄金伝説についてはかなり疑わしいが。
家康にとって、
小牧の役で味方だった織田信雄は、既に秀吉の軍門に降っている
対秀吉包囲網を形成していた四国の長宗我部、紀伊の雑賀衆、越中の佐々成政は既に滅んだか降伏
唯一援軍を得られそうなのが関東の娘婿北条氏直であるものの、
秀吉は上杉景勝、佐竹義重といった東国大名を味方につけており、
北条氏が関東を遠く離れてどれだけの援軍を出せるか疑問
三河・遠江・駿河・甲斐及び信濃の過半を支配する家康が動員できるのは、
せいぜい四万人から五万人程度
信濃には真田昌幸という曲者もあり、秀吉の侵攻に合わせて大暴れすれば、信濃の兵は動かせなくなる
秀吉の版図は既に三十九か国、既に後顧の憂いもなく、
小牧の役当時の十万人に倍する兵の動員が可能な状況にある
尾張方面から三河へ押し寄せてくるであろう十五~二十万の大軍
家康、かなり詰んだ状況だった
ぐぐったら埋蔵金伝説もあるのか
そりゃヒッシだな
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